Web論

僕は6年前からWEBで日記を書いている。書いて書いて書きまくって、たまにちょっと疲れて休んだりして、それでも飽き足らなくて、こうしてまた書いている。

日本人は、基本的に日記の好きな人たちだと思う。おそらく、これだけ日記に対して熱意と愛着をもっている民族は、世界広しと言えども日本くらいなのではないか。

日本では、昔から多くの人が日記を書いてきた。日常生活の中でのプチ発見を「ちょっとイヤなものー」「ちょっと面白いモノー」と、つれづれ日記を書いたらそれが宮中で大ウケ。1000年以上経った現在では教科書にまで載った紫式部をはじめ、伏見宮貞成親王、永井荷風、田中康夫、吾妻ひでおに至るまで、多くの人が日記を愛してきた。

では日記は一体、何のため、誰のためにかかれるものなのだろうか。
日記はまず、現在自分の心を慰めるために書かれる。これは何も「日記セラピー」に限定した話ではない。今日あったことを記録しておきたい、思いを書きとめておきたい、その他の欲求に応えるものである。

その日記が、次は未来の自分を助ける存在になる。自分の行動記録としてあとからこれを調べたり、自分の心の変化の差分を確かめたり、あるいは思い出を呼び覚ますアルバムのような作用をも果たす。

そして、現代ではその先まである。その日記を、第三者に読んでもらったり、第三者の書いた日記を好きなだけ読んだりできるのだ。昭和時代までならば、前述したような限られたニッキスターたちだけのものだった、この公開日記という権利が、こうして好きなだけ行使できるのがWEB2.0時代である。インターネット社会のもたらしたもの、変化は沢山あるが、この「誰でも日記を公開することができるようになった」という事実ほど、気付かぬうちに私たちの生活を根底から揺るがすような革新はなかったのではないだろうか。(ここであえて注釈するならば、mixiも2ちゃんも日記の一種なのである!)

昨今、世間を騒がしている社会問題も、日記を取り入れればそのほとんど解決するであろうことは言うまでもない。

惨殺事件。妻が夫を殺す前に、いや、結婚する前に、お互いの日記の過去ログを読み込んで人となりを知る。半年も読めば、その人と自分が合うか合わないかが判断できるだろう。1年分も日記を読めば、その人のことは他人ではなくなる。2年分読めば、好感を抱くに至る。3年を超えれば、敬意や友情、愛情など、一種親愛の感情が生まれてもおかしくない。

いじめ問題も、日記が解決する。クラスの中でソーシャル日記を書いていれば、お互いの色んな面を知り、残忍な抑圧や攻撃は発生しにくくなるだろう。WEB日記ならば、よしんばいじめられたとしても、隣のクラス、校外、世界にまで心の救いを求めることができる。また、WEB日記に親しむことによって、文章の読み書きの基礎体力が向上し、学力低下にも歯止めをかける効果も期待できる。

ぜひとも、全国の教育機関や福祉施設、矯正施設で日記を取り入れ、問題解決に役立てて欲しいと思う。日本の未来を救うのは、日記である。なんで日記のことを書き始めたら天下国家にまで話が発展してしまったのか、書いている僕にもさっぱりだ。

(櫻木)