歴史と日本

前回に引き続き、靖国神社でのインタビュー記事です。今度の老人は工兵隊の班長として南方戦線の各地を転戦、ジャングルの中を生き残った戦士でした。

??軍第二中隊所属 工兵隊 ○班班長 G氏

「どんなに敵の数が多くても、絶対勝てる。戦い方がある。」
俺は軍師だからね、とG氏は薄青い瞳をきらめかせながら語った。

氏に話を伺ったのは、靖国神社の参道にあるレリーフの前だった。
「こんなの飾ってあるから、外国が文句言ってくるんだよなあ。これなんか日露戦争のときのだろう」
「A級戦犯だってそうだ。みんな逃げて逃げて、結局捕まって死刑になっちまった。」
「でも俺は違う。南方戦線、ビルマ、ベトナム、シンガポール…どこでも行ったよ。でも死ななかった。どんな戦いでも勝ち抜いてきたんだ。」

G氏は、その数奇な半生を僕に語ってくれた。なお、氏は迫撃砲の轟音によって耳を悪くしており、こちらからの質問はほとんど伝わらなかったので、以下の文章はほぼ一方的な聞き取りによる。

50倍の敵にも勝った

「何で俺が生き残れたかって言うとだな、戦い方を知っていたからだよ。たとえばフィリピンで、俺の前に行った3個中隊なんて、600人いたけど、ほとんど全滅して、30人になって退却してきた。
俺は軍師だからさ、その場で戦術がひらめくんだよ。これはもう経験と直感。いつも同じやり方が効く訳じゃない。
でもここぞという時には正面から攻めないとダメだ。横の方から行ったりすると、かえって警戒されてるからみんなやられる。行くときは正面から、一気呵成に攻めた方が勝てるんだな」

「全く負ける気はしなかった。こっちが何人でも、相手が何人いても生き残った。『敵が300人、こっちが6人、弾薬無し』の状況でも勝ったよ。」
――どうやったんですか?
「え!?」
――どうやって?
「えぇ!?」
――どう、戦ったんですか!?
「敵が何百人でもさ、関係ねぇんだよ。こっちは勝ち方が分かるんだから。そん時は仏印(仏領インドシナ)のジャングルにいたんだけど、敵の陣地から少し離れたところに、20~30分で、20mくらいの掩蔽壕を掘るんだよ。敵までの距離はここからあそこまで(10mくらい)だな。」
「100cmくらいの壕を掘ると、掘り出した土を盛るからちょうどかがむと人が隠れられる深さになる。そこをな、4人くらいで、鉄兜を帯剣でガンガン叩きながら、『うわーっ』と鬨の声を上げながら行ったり来たり、走り回るんだ。

「するとあいつらは、いつ来るかいつ来るかと緊張して待ってるから、びびって撃ち始めるんだ。敵は自動小銃を持ってるから、それが一斉射撃だよ。パパパパッと。少し静まったらやめて、また『わーっ』とやる。これを30分くらい続けると、自動小銃の銃身が熱くなってくるんだ。(オーバーヒート)」

でもそこに弾を詰め込んで撃とうとするから、暴発する。パーンと銃身が爆発するから、周りにいるやつはみんなケガするんだよ。あちこちで破裂音と悲鳴が聞こえてな。しばらくしたらみんな退却しちまったよ。向こうは300人、こっちは6人。無傷。どうだい?」

「昔、上杉軍を陣太鼓で驚かした話があっただろう。あれの真似をしたんだ。そうやって、色んな戦史を頭に入れておくと、いざと言うときにぱっとひらめく。だから敵がどんだけ多くても、俺がいる部隊は一度も負けなかったね。」

ベトナム人に白人との戦い方を教えた

「その後、安南(北ベトナム)にも転戦した。そこで、現地の安南人にも色々教えたよ。全部で53人いた。」
築城、陣地構築、塹壕掘り、迫撃砲への対処、白人との戦い方、俺の知ってることはみんな教えた。俺は教える気なんてなかったんだけど、他の奴らが俺のことをしゃべったんだな。『あいつは何でも知ってる』『人間じゃない』って。迷惑な話だけどさ。」
「そいつらは、一緒にいた日本人よりよっぽど真面目で覚えが早かったよ。でも向こうは53人でこっちは一人だからさ。寝る暇がないんだ。入れ替わり立ち替わり、夜中でも聞きに来るから、毎日2~3時間しか寝られなかった。」
「安南人。分かる?ベトコンだよ。戦後、またフランス、アメリカが攻めてきただろ。その様子をテレビでやってるのを見たらさ、ジャングルでのゲリラ戦。みぃんな俺が教えたとおりにやってたよ。あれなら勝てるって思ったね。俺が教えたんだもん。」

戦場に架ける橋、裏話

「泰麺鉄道の工事にも参加したよ。まあ、大変だったね。特に話すことないなあ。映画あるでしょ、『戦場に架ける橋』。あれ見といてよ。ほとんどあの通りだった。なんせ俺もそこにいたんだから。」

「あ、一つだけ。これは誰も語らないんだけどさ、捕虜とか労務者を竹のムチで叩いたりしたのはみんな朝鮮人だよ。日本人はみんな気の毒がって、やりたがらなくてさ、朝鮮出身のやつらに『少し階級上げてやるから代わりにやってくれ』って言ってやらせたんだよ。そういう話とかさ、今は誰も話さないからね。」

「俺はそういういろんな話を何でも知ってるよ。全部知ってる。でも言わない。昔はちょっと本でも書こうかと思ったこともあるけど…やっぱいいや。言わない、言わない。」

いい奴はみな死んだ

「ここへ来ると、毎年当時の中隊長を見かけるけどさ、話すことなんて何もないよ。さっきあそこにいたのは○○中隊長、あっちのは○○と言ったかな。士官学校出の奴らは威張ってるばっかりしか能がなくてさ、嫌いだったね。作戦の前になって、腹が痛いとか言って内地に帰っちゃったりするのもいた。そういう要領のいい奴らが生き残ってさ、いい奴はみんな死んでしまったよ。俺は運が強かったからね。」

氏は復員してからの生活(天国だったね)、当時の国際情勢(財閥が悪い)などについても語ってくれたがここでは割愛する。

参照情報
のとでんでん倶楽部 [ 能登の民話 ]
「そして、やってきた上杉勢の背後に、男衆はそ~っとまわり、じいさまの合図と同時に陣太鼓を打ち鳴らしたのです。」
在日一世の記憶 第三三回 「生き残ったBC級戦犯として」
「最初に俘虜を見たときは恐かったですよ。みんな背が高く、まだあのころは体力もあって堂々としていましたから。それに彼らは捕まったくせに、よく口笛を吹くんです。「やめろ」と言ってもやめない。とにかくバカにされないようにしなければ、と思いましたよ。」
戦場にかける橋 – Wikipedia
B000R8XA5C
戦場にかける橋

(櫻木)