台湾

しばらく前に、防衛省が利権問題で揺れたことがあった。国家の最重要課題である国防をネタにして甘い汁を吸うとは…。情けなくて言葉もない。この世代の現代日本人は、骨の髄まで腐敗しているようだ。

そこで今日は、明治時代人の典型として、清廉かつ大度量の持ち主だった軍人政治家の筆頭として、明石大佐のことを紹介したい。

陸軍大佐 明石元二郎

akashi.jpg

明石元二郎は、20世紀、世界史上の大事件となった日露戦争において、児玉源太郎や大山巌に匹敵するくらいの活躍をした、陰の立役者である。

明石は、軍人にしては運動神経がなく、背が低く、身なりにも無頓着な男だった。しかし頭の回転と度胸の良さ、そして国を、民衆を思う心が並外れていた。

あるとき、駐仏公使館付武官時代に、各国の将校が出たパーティーで、明石はあるドイツ士官に「あなたはドイツ語ができますか?」とフランス語(当時の世界標準語)で聞かれた。
明石は「いや、フランス語で精一杯です」と返事をした。それを聞いたドイツ人士官は明石を無視して、そばにいたロシア人士官と、ドイツ語で軍事上の機密に関わる話を始めた。実はドイツ語にも堪能な明石は、当然その全てを記憶した。

こんな具合で、明石はジェームス・ボンドもかくやという一大諜報作戦をやってのけたのだった。

大諜報作戦

明石は、駐在武官として世界各国に派遣されていた。駐在武官というのは、在外公館に駐在して軍事に関する情報収集を担当する武官のことで、軍人と外交官の中間のような役回りを果たす。

明石は、ロシア戦争前夜、児玉源太郎よりの秘密命令を受け、露都ペテルブルクに派遣されていた。しかし実際は彼にはいわゆる「スパイの才能」というのは皆無だった。

まず最初にストックホルムに降り立った明石は、初日に独立運動の大物に対して堂々と「日本陸軍の明石が会いたがっている、時間と場所を指定して欲しい」という手紙を人づてに渡している。その正体も居場所も、全く隠すところがなかった。(のちに明石は「それしか方法がなかった」と言っている)

しかし明石のこうした裏表のないところと、豊富な資金を慕って、やがて明石のもとへ磁石のように革命運動の闘士達が集まってくるようになる。明石には、工作資金として日本政府から100万円が渡されていた。当時の100万円は、米の値段で比較すると、現在の72億円に相当し、また、1905年の国家予算の規模が現在の12万分の1だったことからいえば、予算金額上の100万円は現在の1200億円に当たる膨大なものだったという。

明石大佐は、フィンランド憲法党のカストレン、フィンランド過激反抗党のシリヤクス、ポーランドの独立運動家、ロシア国内ではレーニン、ヨシフ・ジュガシヴィリ(後のスターリン)等とも関係を持ち、反露地下運動の大会を開催するなどして、革命運動と破壊工作と諜報を世界規模で行なった。ロシア内部はもちろん、その支配下にある国々で反ロシア運動があるとき、必ずそこには明石の影があった。

明石がロシア国内に投じた波紋は、やがて大きなうねりとなってロシア全土に広がっていった。内務大臣プレーヴェの暗殺、血の日曜日事件、戦艦ポチョムキン号の叛乱など、ロシア革命を構成する重大事件は、全て明石の差し金である。

奇跡の価値は

明石はどこへ行くにも偽名を使わず、ホテルにも「大日本帝国陸軍大佐 明石元二郎」の名前で宿泊した。
またあるときは、人を待って雨の降る森で一晩中待ちぼうけの日などもあった。

しかし明石は、こんないつどこでロシアの手のものに殺されてもおかしくないような日々を送りながら、奇跡的に生き延びた。生き延びたばかりか、見事な手腕で大作戦を成功させた。

明石自身は「この顔のせいさ」などと、自分の風采の上がらない顔を差して言ったそうだが、陸では二百三高地、海では日本海で数々の奇跡が起きたように、明石の大作戦もまた、日露戦争の周りに漂う不思議な神がかり的な力に守られていたのかもしれない、とも考えてしまうのだ。

かくしてロシア全土に広がった革命の烽火は、戦争の継続を不可能にし、帝政ロシアの敗戦、そしてロシア革命へとつながったのである。

戦後、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世が、明石を評して「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果をあげた」と語るほど、明石の功績は甚大なものだった。しかし、ロシア側によって書かれたロシア革命史のどこにも、明石の名前はない。

そして、日本の教科書にも。

公金の使い方

ちなみに戦後明石は、東京に戻って27万円を返金している。工作費として受け取った総額100万円の予算を、その使途を全て帳簿に記録し、残金と合わせて提出したのだった。仕事の性質が性質だし、本来記録する必要も返す必要もない種類の金だったにも関わらず、明石は国のために働くと言うこと、日本の存亡をかけた仕事について、誰よりも真剣に考えていたのだろう。

ただし、実は100ルーブルだけ帳尻が合わなかった。これは帰りの電車の便所で残金を数えているとき、風に飛ばされてなくなってしまったからだった。

台湾総督へ

こうして政府内部で有名人になった明石は、元老達から「あの男は総理の器だ」と目されていた。一国の総理になるべき人間が、間諜をやっていたのだから、そりゃあ仕事のスケールも大きくなろうと言うものである。

明石は、台湾総督に就任した。当時台湾は、日清戦争の結果として日本が領有した初めての外地で、衛生対策や教育対策などで苦労していた。明石は就任して早々、電力事業に取り組んだ。明石が作った水力発電所用の人口湖「日月譚」の発電量は10万キロワットにもなり、台北から高雄にまで送金できた。日月譚は、現在観光名所になっている。

明石はその後まもなく熱病に倒れ、日本の総理になることなく、台湾総統就任後1年で還らぬ人となった。

明石は故郷福岡で息を引き取ったが、「余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」(私は死んで国を守る霊となり、台湾の民衆を必ず守る)との遺言に従って、遺体は台湾に埋葬された。日本による50年間にわたる台湾統治時代を通して、台湾に葬られた総督は明石元二郎ただ1人である。明石を慕う台湾民衆の寄付によって、皇族を除いたどんな軍人よりも立派な墓ができたという。

そんな台湾に、僕は行ってみたいのである。

(櫻木)