松岡農水相が自殺してしまった。これでナントカ還元水をはじめとする種々の疑惑の真相は藪の中である。それでも、故人になってしまえば、これ以上追求することもできないし、遺族の気持ちを考えれば、死んだ後まで批判をするのもはばかられる。
「善人なおもて往生を遂ぐ。いわんや悪人をや。」どんな人間でも、死んでしまえばみな仏。死者の墓を掘り返してまで罰を与える大陸文化と違う、この優しさは日本の美点だ。僕もやはり故人の追い込まれた境遇には同情するし、冥福を祈る。
自殺は逃避
しかし、それでもあえて僕は言いたい。こうした自殺は逃避であり、あまりに惰弱だ。国政を預かる身として各種の疑惑、不祥事を起こした上、それらに対して公の場で説明するでもなく、罪を認めてお縄につくでもなく、自殺、しかもパジャマ姿で首吊りである。逃げ道を選んでしまったようにしか見えない。
責任の取り方
石原都知事は、彼の自殺を評して「死をもって償った侍だ」と語った。
確かに日本には、切腹に代表されるように、自決を潔しとする風土もあった。かつての武士の切腹は、沙汰を受け、己の名誉や主君の命やお家など、自分より大事な何かの価値を守るために自分の身を犠牲にするものだった。2004年の上海総領事館員自殺事件は、事務官が「日本を売ることはできない」という遺書を残して自殺するというものだった。きっかけがハニートラップだったので半分は自業自得だが、日本を守るための決断ではあった。
しかし、この自殺はそれらとは異質に見える。(遺書の内容や、調査の結果が出ないとなんとも言えないが)松岡大臣は何を守ろうとしたのか?自らの口で何も明らかにせず、いじめっ子が発作的に飛び降りるように私的な死を選んでしまったのだとしたら。大人から子供まで、誰もが責任の取り方を忘れてしまった時代。それが現代日本なのか。
もし内閣から追放されていたら…
安部総理があそこまでかばわず、むしろさっさと内閣から追放していたらこのような結末にならなかったのかもしれない。大義よりも党利、公共心よりも私情。
最後まで身内をかばい続けた総理の姿勢は表面的には“優しかった”かもしれないが、それは一国の宰相がとるべき態度ではなかったのではないか。
(櫻木)