コラム

なぜ、ゲームはダメな趣味と批判されることが多いのだろうか。
合コンで「休みの日とか何してるの?」と聞かれて「ゲーム」と堂々と答えづらいのはなぜだろうか。
「ゲーム脳」とか「感動がない」とか大人に槍玉に挙げられるのはなぜだろうか。しばらく考えてみた。

ゲームって何なんだ

まず、前回の更新(ゲームは果たして正義か?)でも触れたように、ゲームは大量の時間を浪費する。それでいて、何も生み出さない。FLASHゲームに12時間をつぎ込んでも、何も残らない。それなのに、やっている間はとても気分が良い。これは一体何なのだ!?

(ここでの「ゲーム」の定義は、いわゆるTVゲーム、アーケードゲーム、PCゲーム(クライアントソフトを利用したものからオンラインゲーム、フラッシュゲームまでを含む)など、画面に対して指先の操作で支持を与え、結果に変化を起こさせる電子遊戯の事を指す。)

ゲームを他の趣味と比較してみる

ゲームは非生産的だが、基本的に趣味は非生産的行為と見ることも出来る。(そもそも、文化とは労働から解放された貴族による非生産的行為の蓄積である)

しかし、ゲームの非生産性は他の趣味と明らかに異なる。では、ゲームを他の類似趣味と比較してみよう。

読書はどうだろうか。両方ともインドアで内向的な趣味だ。電車内での人々の様子が象徴するように、一人の時間を過ごすのにはうってつけな娯楽の代表格である。しかし、本にはゲームにはない情報密度や知的興奮がある。本には現実世界でそのまま役に立つ知識や情報が記されているものがある。また、ゲームよりも圧倒的な歴史と作品量があるため、良質の物語が多い。語彙や文章力を身につけることができるのも有益だ。読書は間違いなく我々の心を豊かにしてくれる。

映画、DVD鑑賞はどうだろう。この趣味とゲームとを、「物語を楽しむ娯楽」という点から比較してみよう。最近の大作RPGでは、映画顔負けの大掛かりなストーリーや画面効果を駆使したものも少なくない。いい勝負ができそうに見えるが、ゲームには致命的な欠点がある。それは時間がかかりすぎることだ。映画は2時間程度で終わる。長くても3時間もあれば終わるだろう。
しかしゲームは、ともすれば何十時間、何百時間と時間を消費する。しかもそれが、CG俳優が演技をする合間にミニゲームをするような最後のファンタジーだったりすると、時間もったいない病をわずらう僕には到底できない。

一方的な物語を見せられる映画と違って、想像力を持って物語の世界に参加できるのがゲームの楽しさではあったが、最近のグラフィック技術の進化と大作化によって、RPGは独りよがりのステレオタイプな「冒険」を見せられる退屈なゲームに変化した。

では、鬼ごっこやかくれんぼダーツやビリヤードなど、フィジカルな遊戯と比べてみるとどうだろうか。これらの遊戯は、「ゲーム」と違い、体を動かす。子供にとっては身体の発育と、物理法則の体得、身体操作の向上に役立つ。成長期の子供にとって、これらのもたらす効果、後の成長に与える影響は計り知れない。大人にとっても健康増進に資するだろう。いずれも一人ではできないので、コミュニケーション要素があることも見逃せない。(ただしゲームにも多人数プレイのものはある。)

ゲームはなぜ楽しいのか

しかし、それでもゲームは確かに面白い。ではなぜゲームが面白いのかを考えてみよう。ゲームは確かに面白い。面白いからこそ、我々は侵食を忘れ、ときには社会問題になるほど熱中してしまうのだ。

人間の全ての行動欲求の根底にあるのは、快楽である。

動物は、まず生命維持、次に種の保存を使命としている。万物の長たる人間とて、この本能から逃れることはできない。そこで我々の脳は、生命維持か種の保存に適した行動をとるとき、「快」を感ずる。

腹が減ったときに食事をし、喉が渇いたときに水を飲んだとき、快を感じる。これらの食欲、性欲、睡眠欲などは大脳辺縁系が司る生理的欲求とされる。
しかし、より高次な人間的活動に対しても、石器時代から変わらない「生存に適したこと」に対して「快を感じる」原則が大きな影響を与えている。

勉強したり、新しい技術を習得したりすると、楽しい。気持ちがいい。これはその新しい情報や技術が自分を成長させる、つまり生存競争に対して有利になるからだ。

机の上を整理整頓してきれいな状態になるとスッキリする。これは、巣や居住空間を清潔な状態に保つことによって、病気の心配がなくなるからだろう。

後輩や子供を指導、育成して喜びを感じる。これも、彼らの成長によって自分の種族の繁栄が保証されるからに他ならない。

マズローの欲求段階説にしたがって高次のものを見てみても、それらは全て原始時代から残る快の原則が背景にある。

ゲームがダメな理由

しかし、「本能の壊れたサル」である人間は、この原則を乱用する。「気持ちよさ」のみを抽出して、それだけを楽しむことができてしまうのだ。

たとえばタバコ。喫煙者がタバコを吸うと気持ちよくなるのは、ニコチンが脳のニコチンレセプターにスポっとハマるときに快楽中枢が刺激されるからだ。だがこれは快楽のみを扱っているだけで、人体に良い影響はひとつもない。麻薬はもっと顕著だ。

これと同じように、ゲームは指先と視覚からの情報だけで、快楽中枢を刺激することができるのだ。

例えばあの非常に単純なフラッシュゲームに我々が何時間、何十時間も費やしてしまうのは、「敵を倒す」「整理整頓する」「技能に習熟する」といった、人間が本来的に快を感じるような結果が、そこからダイレクトに得られるからである、ということに気付いた。

ゲームの中で単純化されているので、よりダイレクトに、しかも数十分で確実に得ることができる。これは気持ちいい。しかし、それはゲームの中だけの話であって、薬効が切れると現実世界には何も残っていない。かくして禁断症状と中毒が始まる。

あるいは戦略シミュレーションゲームやRPGで、主人公がレベルアップして強力な攻撃ができるようになる。味方のユニットがどんどん成長していく。これはぞくぞくするほど楽しい。しかしこれも、本来自分が現実世界でレベルアップしたり、現実の仲間や家族が成長していくのに対して感じるような気持ち良さを、擬似的に短期的に味わえるからなのではないか。

すると、我々がゲームを楽しむのは、脳に電極を埋め込まれたマウスが、快楽中枢を刺激するボタンを衰弱死するまで押し続ける姿に重なって見えてこないだろうか。

ゲームとの付き合い方

とは言うものの、ゲームが悪なわけではない。博愛宗教が戦争ををひきおこし、戦争が重工業技術の発展を促してきたように、全ての物事には良い面と悪い面がある。
ゲームも、日本のコンテンツ産業の世界征服や、CGやCPUなどのテクノロジーの進化に大きく寄与しているはずだ。

そこで僕らは、いにしえの大哲人の言葉を想起したい。

「ゲームは一日一時間まで!」

・ゲームと僕

最後にお断りしておきますと、僕は「ゲーム脳は犯罪脳」とか「ゲームで感動はない」とか言う主張を支持するものではありません。ろくにゲームもやったことがないのに批判をするわけでもありません。
小学生のころにMSXを買って以来、PCエンジン、メガドラ、メガCD、ゲームギア、スーパー32X、セガサターン、ドリキャス、とセガそなハードを渡り歩き、ゲーセンではストIIにハマりバーチャにハマり、全国大会に出場するくらいまで腕を磨きました。でも、より現実的な成長や体験のほうに価値を見出すようになったため、今ではほとんどゲームをしていません。でもWiiは楽しいです。

(櫻木)