コラム

亀田一家は彼らの力だけで成り上がったのではなく、彼らを後押しする何か、彼らを肯定し称賛する何かの力を借りてここまでの地位にのし上がったのである。私はそういう総合的な「現象」を嫌悪していたのだ。にもかかわらず、その「何か」は亀田一家が商品価値がなくなると見るや、一斉にはしごを外してトンズラを始めている。ひょっとしたら今ネットで「切腹しろ切腹しろ」と人々を煽っているのは、以前亀田家を持ち上げていた連中じゃないのかとすら思えるくらいに。嫌悪していた「亀田現象」は死んだが、「亀田現象」を作っていた連中は死んでいない。そのことが私を暗澹たる気持ちにさせるのである。
亀田現象のこと – 虚構組曲

名文。僕はこのサイトの2005年の記述で初めて「亀田」なるものの存在を知ったんだけど、これはその現象の本質を正確に切り抜いた問題提起だと思う。

僕が亀田問題についてここまで執着してしまうのもきっとここに原因がある。亀田問題には、現代日本社会が抱える病巣、日本的なる物の悪しき部分が凝結して渦を巻いている。亀田一家にも有り余るほどの非はあるが、どちらかというと問題の象徴として叩いている感はある。

そして、TBSをはじめとする局やテレビ屋などメディアの側までもが、「象徴としての叩き」、つまりスケープゴートとしていっせいに亀田をたたき始めているところに、日本の悪しき部分と、劣悪なメディアの姿勢が透けて見える。

戦時中は総力をあげて戦意高揚記事を書き、配色が濃厚となっても「新聞が売れるから」と大本営ちょうちん記事を書きまくり、負けたら負けたで手のひらを返してCHQにすりより、「戦前の日本は悪だった」大キャンペーン。こうした腐ったメディアの姿勢は、まったく変わっていないではないか。

(櫻木)