ぼくは科学博物館に行くのが好きなのだが、先日まで行われていた「インカ・マヤ・アステカ」展では展示に合わせて効果音や民族音楽の類が館内に流されていた。
どれもとってつけたような音や音楽で、展示物に比較して余りに稚拙な効果音やBGMには苦笑するしかなかった。このような乱暴な音の演出は今回の展示に限った事ではない。
(音から逃げる)
日常生活で垂れ流される「音」を嫌って逃げ続ける人の話。村上龍の『音楽の海岸』みたいだな。
僕もこの人ほどではないが、無神経な音を憎んでいる。特に痛切に思うのは、JRの発車オルゴール。駅ごとに違うオルゴールがチャカチャカ流れるアレだ。せめて国鉄時代のように普通の発車ベルに戻して欲しい。きっと、「無機質なベルよりも音楽で軟らかい雰囲気にしよう」程度の浅知恵で始められたに違いないこの「音の暴力」は、おそらくその意図に反して着実に日本人の心を蝕んでいる。
非道いときは、上りのオルゴールと下りのオルゴール(違う曲)が同時に鳴って、さながら悪夢のようだ。中央線に飛び込み自殺が耐えないのは、中央線のオルゴールのある種の波長に問題があるのではないか、というウワサもまことしやかに語られているくらいだが、僕はこれを単なるうわさとして片付けられない気がする。あの不穏な繰り返しメロディを聞かされていると、敏感な人なら何かのスイッチが入ってしまってもおかしくない気がする。
現在の仕事場では、BGMが流れている。僕はこれにも我慢がならない。我慢してはいるが、そのせいで多大なストレスを感じている。そもそも、音楽とは垂れ流しで聞き流しにできるような軽いものではなく、もっとまがまがしくて、衝動的で、本能的な暴力なのだ。
それを感じる感覚が麻痺してしまっている人が、敏感な人に不当な忍耐を強いているのが、現代日本社会なのだ。
日本語に「つまびく」という単語がある。これは三味線など、日本の楽器を弾くときに使われる動詞だ。かつての日本の家は狭かったし、基本的に開け放たれていて防音構造などなかったから、「つまびく」くらいの音でないと近隣に迷惑がかかった。今、日本は、近隣との間隔も適切な音量も分からなくなり、ただほかの騒音にかき消されないように、自分の音量のみを上げる社会になっている。
(櫻木)