国際関係

僕は文章についての多くを村上春樹に学んだ。
村上春樹は、デレク・ハートフィールドと同じく、文章を武器として闘うことができる数少ない非凡な作家だった。両者の大きな違いは、ハートフィールドが死ぬまで自分の闘う相手の姿を明確にとらえることができず、不毛なままの一生を終えたのに対し、村上春樹は生き続けて、現実世界と言葉で闘うことができるようになったことだ。

そんなわけで、村上春樹は、エルサレムで堂々と、イスラエルの暴力を真っ向から婉曲に批判し、エルサレム賞の恥ずべき歴史に輝かしい一ページを加えることとなった。

“Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg.”

Yes, no matter how right the wall may be and how wrong the egg, I will stand with the egg.

Each of us is, more or less, an egg. Each of us is a unique, irreplaceable soul enclosed in a fragile shell.
Always on the side of the egg – Haaretz – Israel News

そういうわけでここにいます。ここに近寄らないよりは、来る事にしました。自分で見ないよりは見る事にしました。何も言わないよりは何か話す事にしました。

これは私が創作にかかる時にいつも胸に留めている事です。メモ書きして壁に貼るようなことはしたことがありません。どちらかといえば、それは私の心の壁にくっきりと刻み込まれているのです。

「高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかり割れる。そんな時に私は常に卵の側に立つ」

ええ、どんなに壁が正しくてどんなに卵がまちがっていても、私は卵の側に立ちます。何が正しく、何がまちがっているのかを決める必要がある人もいるのでしょうが、決めるのは時間か歴史ではないでしょうか。いかなる理由にせよ、壁の側に立って作品を書く小説家がいたとしたら、そんな仕事に何の価値があるのでしょう?

この暗喩の意味とは?ある場合には、まったく単純で明快すぎます。爆破犯(bomber)と戦車とロケット弾と白リン弾は高い壁です。卵とは、押しつぶされ焼かれ撃たれる非武装の市民です。これが暗喩の意味するところのひとつです。

しかしながら、常にそうではありません。より深い意味をもたらします。こう考えて下さい。私たちはそれぞれ、多かれ少なかれ、卵です。私たちそれぞれが壊れやすい殻に包まれた唯一無二のかけがえのない存在(soul)です。
村上春樹: 常に卵の側に

村上春樹は、壁の下敷きになって死んでいく弱者たちだけでなく、僕たちの存在全てを「卵」と読んだ。
もちろん、このスピーチによっても問題は何も解決していないし、語り終えてもあるいは事態は全く同じと言うことになるかも知れない。
結局のところ、言葉を語るというのは変革の手段ではなく、変革へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。
しかし村上春樹は、「個人の自由に与える賞」を受賞するためにエルサレムまで行き、個人の命を奪い続けている力を批判する言葉を語った。

「村上春樹はこんな賞を辞退するべきだ」と非難した人も、「作家がどんな賞をもらってもいい。小説と政治は関係ない」と擁護した人も―無論、僕も含めて―村上春樹の作家としての戦闘的な姿勢を知らなかった、あるいは村上の「コミットメント」を信用していなかった、ということだろう。この受賞スピーチは、とても真摯な、しかもこれだけで成立しうる批評的な作品と言っていいものだと思う。

かつて村上春樹は、自らの作品の中でこう書いた。
「僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものの間には深い淵が横たわっている。どんな長い物差しを持ってしてもその深さを測りきることはできない」
それでも彼は、決して物差しを手離そうとはせず、世界を認識する努力をあきらめなかったと、いうことだろう。

初期の村上春樹の小説は、冒険をしても主人公が全く成長せず、出会いがあっても変わらず、ある種の「不毛な」物語ばかりだった。しかしあれから30年が過ぎ、今や不毛の大地は象が帰る草原となり、彼は力強い言葉で世界を語り始めたのだ。

(櫻木)