Web論

はてなに対して思っていたことを思い出したので、述べます。

はてなユーザーが支持してきたはてなのはてならしさたるゆえんこそが、元々僕が抱いていた、はてなという世界に対する違和感の根源だったのではないか、という気がしたのです。

はてなという思想

おれはおまえのパパじゃないで、こんな文章がアップされていました。

俺がはてなという会社に対して感じていたエキサイティングな印象が、薄皮を剥ぐように消えていって、だんだんとはてなという会社に興味を持てなくなっていることに寂しさを感じている。(中略)

思想をコード化してくれよと。

黎明期のはてなに感じていた思想は俺の勝手な解釈に過ぎず、そんなものは元々なかったんだと言えばそれまでなんですけども。少なくとも俺が黎明期のはてなに感じていたのは、「おまえらという断片を、はてなが片っ端からつなげてやる。それによってできあがる新しい世界をおまえらに見せてやる」というものだったんですけど、まあこれは相当に俺の勝手すぎる解釈であります。ありますけども、そういうメッセージを俺は感じていた。(おれはおまえのパパじゃない – ここ一年二年、はてなに対して思ったこと

ここでアニさんが抱いていたはてなへの夢や期待は、そのまま僕にとってのはてなへの警戒心だったのでした。

僕ははてなのサービススタート当時、所謂テキストサイト、日記系流れのブログっぽいサイトを運営していました。そこでの便利なリンクページとしてとして、「はてなアンテナ」を使い始めました。しかし、『ダイアリー』というサービスが開始されるに及んで少し状況が変化したのです。

アンテナには真っ先に飛びついた僕ですが、ダイアリーには正体不明の違和感を感じました。と言いつつ最初は僕も、「a→dとサブドメインが増えて、この方式でどんどんサービスが増えていったら楽しいな!」とわくわくしていたのも事実です。僕の周囲でも、全く気付かず、あるいは何も気にせずに、日記更新の主軸を、今まで運営していたサイトからあっさりとはてなに乗り換える人が出てきました。しかし、そういう人が増えるに従って、僕の中で恐怖が育ちました。

はてなは、単一サービスを提供するサイトではなく、実験的サービスを複合的に展開し、ユーザー同士を結びつけてしまおうという思想をもった、急進的な(エキサイティングな)会社だったのです。このままでは、僕のサイトは全てがはてな思想に飲み込まれてしまう。

そう、はてなは、日記サイト補完計画だったのです!

はてな市民

僕がオフラインではてな市民の人と接触した際に、まず驚いたのは、彼らの「はてな愛」とでも形容するのか、サービスに対するロイヤルティです。
僕はそれまで、はてなダイアリーというのは、あくまで更新にそうしたツールを利用している日記系サイト、テキストサイトで、特に彼我の差はないと思っていました。

しかしあるとき、はてなユーザーに「あなたはテキストサイトの人ですね」と言われ、彼らが「はてなの人」「テキストサイトの人」「ブログの人」と明確に区別していることを知ったのです。

ここで僕は、かの悪名高きCMを想起せざるを得ません。

「こんにちは、パソコンです。」
「こんにちは、マックです。」
「え?あなたもパソコンですよね…?」
「でも、みんな親しみをこめて『マック』って呼ぶんだ。」

これが世の中のマカーのステレオタイプだとは言いませんが、マック使いの持っている一種のスノビズムというか、「俺ちょっと違うぜ」感、フミヤとARTでフミヤート的なものは、よくも悪くもマックの(Apppleの)特徴でしょう。また、それが既にファンになったユーザーを強烈にひきつけている要因であることも理解しているつもりです。(このCMはそれがグロテスクな形に結実してしまったせいで完全に失敗しているが、あれでも日本向けに作り直したというのだから驚きである)

そのサービスにとても愛着を持っている人にとっては、それは唯一無二の素晴らしい世界なのかもしれませんが、外にいる人にとっては「何がいいのか分からん」ことは往々にしてあります。
ただ、たまに垣根の外から中を覗いて、「なんだか楽しそうだなあ」とうらやましく思ったりもするのですけどね。

まとまりを欠きましたが、僕がこうして何年も書き続けられているのは、はてな国民がはてなに大して抱くべき愛着や忠誠心やアイデアやブックマークを、全て自分で運営するサイトに振り向けているからではなかったか、と個人的な感慨を述べて終わります。

(櫻木)