Web論

ちょっと前になるけど「渋谷にアムウェイの会員が集まるカフェがある」という話があった。そこは別にアムウェイと何の関係もないカフェなんだけど、アムウェイ本社と渋谷駅との間のちょうどいい位置にあるから、自然とそうなっているそうだ。

この話について、都会暮らしとネット生活とについて色々と考えさせられることがあった。

Mによると、アムウェイにハマるのは、それによって人とのつながりが生まれるからなのだそうである。もっと端的に言うと、ケータイの電話が鳴るようになるからだ。

と言うのは、アムウェイに入会すると、色々連絡事項ができるので、人とのつながりが濃くなるらしいのだ。

アムウェイにハマる若者というのは、寂しい人が多いらしい。ケータイは持っていても、電話も鳴らないし、メールも来ない。

ところが、そういう人がアムウェイに入ると、とたんに電話はしょっちゅう鳴るし、メールも頻繁に届くようになる。またそれに伴って、すること、しなければいけないことも増える。

それが楽しいらしいのである。電話やメールというのも、用がないとなかなかかかってこないし、またこちらからもかけづらいというものがある。こちらから積極的にアプローチしようにも、そのきっかけをつかめない。

しかしアムウェイは、そのきっかけを作ってくれるのである。アムウェイに入ると、とにかく連絡しなければならないことが色々できるから、その連絡するのをきっかけに、他者とコミュニケートできるのだ。

しかもそのネットワークは網の目のように広がっているから、コミュニケートは多角的になる。広く大きくなる。そうして、結果としてケータイの電話もよく鳴るようになるし、メールもよく届くようになるのだ。
渋谷にアムウェイの人たちがよく集まるカフェがある – ハックルベリーに会いに行く

都会っ子純情

大体東京にいる若者なんてのは、地方から出てきた若者が多い。そうなると、20年くらい築いてきた田舎の濃密な人間関係を放棄して出てくることになるので、他社とのつながりを求める気持ちが大きくなるのだろう。

それにしても、「携帯が鳴らないと寂しい」という価値観には、改めてカルチャーギャップを感じる。携帯なんて鳴りまくったら逆にうっとうしくないのかな? 連絡手段、あるいは暇つぶしツールとして、なかったら困るけど、それ以上のものを求めるのはよく分からないなあ。

…と思ってここではたと気付いたんだけど、Twitterとかmixiとかにネット人が求めているものと似ているんじゃないか。Twitterのリプライの数に一喜一憂したり、mixiのログイン画面で赤い文字(メッセージがあります)を心待ちにしたり。

Twitterか

さらにさらによく考えてみると、こうして僕は「よく知りもしない相手と携帯メールでつながりなんか求めてどうするんだ?」と冷笑しているわけだけど、これは僕がブログ運営によってそういう心の隙間を埋めているから求めずにすんでいるだけなのではないか。だって、先ほどの引用をブログに置き換えてみると…。

ブログにハマる若者というのは、寂しい人が多いらしい。パソコンは持っていても、メッセンジャーも鳴らないし、メールも来ない。

ところが、そういう人がブログを始めると、とたんに書き込みはしょっちゅうあるし、メールも頻繁に届くようになる。またそれに伴って、すること、しなければいけないことも増える。

しかもリンクが網の目のように広がっているから、コミュニケートは多角的になる。広く大きくなる。そうして、結果としてトラックバックや書き込みもよく来るようになるし、メールもよく届くようになるのだ。

そ、そうなのか!

なーんてね。はい、もしもこれを見てブログを始めようと思った人がいたら、騙されてます。ブログを始めても、まず十中八九は「書き込みやトラックバックがぽんぽんくるブログ」なんてできないし、メールも来ない。(朱雀式は幸いにして、1年続けたらおかげさまで割と来るようになりました。)

ブログが埋めるもの

それにもし、「寂しいから」が理由でブログを始めても長続きはしないと思う。ブログを書いても寂しさは慰められないからだ。ブログがある程度埋める隙間はあるけど、それだけではブログを回転させるモチベーションにもならないし、孤独を癒す補完ツールにも足りないはずだ。

ブログは、文章を書くというのは、まず自分の中に書きたいものや伝えたいこと、表現したいもやもやや吐き出したい欠片など、アウトプットの衝動がないと続かないと思う。

(それからGoogleストリートビューの威力。こうしてブログを書いていて「ここです」と写真がいつでも使える。便利というよりなんか怖い。あとここは僕が大学時代によくコーヒーを飲んだ店だったのもあって気になったんだけど、これは余談。)

(櫻木)