最近、日本の子供たちが勉強しなくなっているという話を聞く。学力低下の話もよく聞く。しかし、学力テストや理系人口の話とは別に、もっと根本的な危機が日本に訪れているような気がするのだ。
子供の頃、僕はとにかく成績が良かった。小学校のテストでは100点以外を取ることはまれだった。かといって、特に勉強をしていたわけでもなく、ただ周囲より小さい頃から本を読んでいただけだった。本読みの時間も、ひらがなの本ではなく、普通に漢字で書かれた本を読んでいた。
しかし当時から、頭のいい子=まじめ、ダサい、勉強できないがスポーツできる=かっこいい、というようなイメージがあり、小学生ながらその同調圧力が鬱陶しかった。僕はその後県下一の進学校に進んだが、勉強を全くしなくなったので見事に落ちこぼれてしまった。別段スポーツもできるようにならなかった。
まぁ、僕の話はおいておいて。日本の危機である。
私には「頭のいい子」という称号がついて回った。
賞賛の意味でそう呼ばれることが多かったが、「変わってる」「すかしてる」という意味での蔑称として呼ばれることもあった。
だから、私は「頭がいい」と言われることが、どうしても好きにはなれなかった。「まじめ」「いい子」という呼び名も、同じ意味で嫌いだった。
小学生の同調圧力はあなどれない。飛び抜ける子は、どうしても叩かれる。
(ちなみに、その後、これに近い思いを味わったのは、初めての東大卒・女性課程博士として前の会社に勤め始めたときだった。)
幸い、私は級友に集団でいじめられた記憶はないが、小学校三、四年生のころの教師には、手ひどくいじめられた。級友や教師に、「勉強ができる」ゆえをもっていじめられた子供、今もいじめられている子供はたくさんいるだろう。
実際、その後に進学した中高一貫の女子校や東大で出会った友人たちは、多くがいじめられた経験をもっていた。
たとえば体育や音楽でずば抜けた能力をもつ場合、その子は胸を張っていられる。
でも、「お勉強」の教科に秀でている場合、その子はそれを無邪気に誇りに思うことはできないばかりか、後ろめたいことのようにすら思うことを強制させられる。
この非対称性は、なんなのだろう?
どうにも不思議だ。
(中略)
日本の企業は、博士以上の高学歴者を敬遠するという。そこには、勉強のできる子供に対する偏見と同質の偏見がひそんでいるような気がする。
(中略)
日本の科学技術の発展を妨げているもののひとつは、「勉強ができる」ことを蔑みの対象とするような、小学校から企業にも広がる精神風土なのではないか。
この人の場合は、「勉強ができる」といって白眼視されたまま、大学に進学して「勉強ができる人のコミュニティ」に入るまで心の休まるときがなかったという。一体、こういう「勉強できる」人を蔑視するような風潮は、いつできあがったんだろうか。
今年はノーベル賞の受賞が相次いで話題になったが、彼らは今の研究者ではない。
ノーベル賞受賞者が研究に没頭したり、日本の車や家電が世界に進出していく高度経済成長期には、そうした「勉強ができる人を蔑視」するような風潮はなかったのではなかろうか。
幕末…明治…昭和初期…戦中…戦後…平成…。
明治維新の奇跡と、明治帝国の躍進の原動力は、江戸期に培われた武士階級(=知識階級)の高い向学心にあった。日本の識字率、教育水準の高さが、戦後の日本の経済的発展を支えたというのも定説だろう。
するとやはり、戦後教育のここ2~30年の話なのではないだろうか。今はメーカーでも、若手の技術者と熟練の技術者、開発者との間の知識の断絶が深刻な状態になっているらしい。
大学では数学の授業が成り立たず、高校数学からやり直すようなところもあると聞く。(僕の入った大学も、英語の授業はHelloから始まりあまりのレベルの低さにびっくりした。)
全世界の学力比較でも、日本は年々順位が下がっていき、勉強時間もどんどん少なくなっていく。日本には、資源も国土もない。日本が経済でも軍事力でも世界に対抗しうる国になるためには、頭脳を生かすしかない。資源と言ったら国民しかないのだ。
昔は勤勉は美徳とされ、どこの小学校にも二宮金次郎像があった。生徒が勉強をすることは当たり前で、そのモデルとして二宮尊徳があったのだろう。しかし、戦後のGHQ支配で「国民教育=軍事国家体制の元凶」として撤廃された。
やはり今の教育のどこかに問題があるのではないだろうか。勉強することを尊び、日本を深く理解し、日本の発展と真の平和のために貢献する人材を育てるような教育を望みたい。
(櫻木)