ブログ論

2006年第4四半期におけるブログ投稿数の言語別割合。我々はブログに何を託しているのか。日本語とは何か。実に世界のブログ投稿数の37%が日本語という、日本人の突出したブログ人口比の高さは何を意味するのか。

先日書いた「なんの唐突もなく日本語を破壊する人々 – 朱雀式」には、思った以上の反響がありました。やはり日頃から個人ブログなんていうパーソナルな文章メディアまで見たり書いたりしている人は、言葉に対して相当意識的な人が多いようです。

そして、あんな若者の言葉の乱れを憂うようなことを言ったら、ワカモノたちに一斉にバッシングされてしまうかと思ったらそうでもなく、寄せられたトラックバックでも賛否両論でした。

言葉はコミュニケーションの道具。時代に合わせて変わっていくもんだし、変わっていくべきです。「伝える」ことが目的なのでね。その目的が達成されやすいように変わっていく。それが言葉の発展じゃないかと思っているわけです。そしてその蓄積がまさしく現在の言語となっているんじゃないですかね。
言葉の乱れをあつめてはやし最上川 – タケルンバ卿日記

言葉に何を託すか、という観点では、第一義的にはそれがコミュニケーションの手段であることは間違いないでしょう。しかし、例えばだからといって「言語の発展」を各人が好きなように進めていったら、ジャーゴンだらけで自分の周辺のコロニーでしか会話が成立しない、「言語アノミー状態」が到来するのではないでしょうか。

まあこれはちょっと飛躍ですが、そもそもインターネットにおける「言葉」という存在に何を仮託するか、つまり「ブログ」という存在をどう規定するかによるもののようです。

こちらのタケルンバさんは、ブログを「話し言葉のコミュニケーション」として捉えているようです。

すると、そもそもの前提からして僕とは違う。僕はブログと言う場を文章による表現の場、文章修行の道場と位置づけています。ここで毎日繰り広げられているのは、閲覧者一人一人に向けた手紙、あるいは学級新聞、アジビラのようなものです。

「時代性」を金科玉条に、「時代が違うから若者言葉も辞書に載せるべき」と日本語が蹂躙される現象に対する怒りがありありと伝わってくる。これは喋り言葉とは違う、書き言葉の考察。口で「マジ? だっせー!」と言う事と、文章で「本当? あまりかっこよくないね」と書く事は別のレイヤーの話である。
正しい日本語でブログを書くのは最低限のマナー? | 1953ColdSummer

時代性が常に正解で、最新の状態を常に最良とする、というのは、おそらくデジタル世代の自然な感覚だと思います。僕もWindowsは自動更新にしてますし、秀丸がアップデートされたら更新します。こうしてブログをほぼ毎日のように更新しているのだって、「最新」の状態を保っておきたいからとも言えます。

しかし、その考え方を伝統や文化の介在するところにまで無遠慮に敷衍していったら、大変なことになってしまいます。
支那から漢字が伝わったときにだって、そのまま言葉としてそれを取り入れていたら、日本は中華文明圏の中に取り込まれていたことでしょうし、大東亜戦争の敗戦後に公用語を英語にしていたら(実際そういう議論があった)、日本はとっくにアメリカ合衆国ジャパン州になっていたことでしょう。(こちらは事実上なりかけてますが)

日本人を日本人たらしめているのは単一民族としての血統ではなく、日本語の伝統です。先日、台湾に行ったとき、日本語を“母国語”として育った老人達と日本語で話をしていて、そのことを実感しました。彼らは今でも日本人よりも日本人的な、“元日本人”でした。まさに、「国家とは国語」なのです。

(櫻木)