歴史と日本

■日本のノブレス・オブリージュ

「ノブレス・オブリージュ」という言葉があります。「高い身分に伴う義務」という意味のフランス語です。このことについて、現代に生きる私たちは、今まで以上に意識しなくてはならないと思います。なぜなら、日本の今日こんにちの平和や繁栄を築いた礎こそ、この「ノブレス・オブリージュ」だからです。


19世紀末の極東研究家ヘンリー・ノーマン氏は、その著書の中で、日本が他の東洋専制国と異なる唯一の点は

「従来人類の案出したる名誉の掟中でも最も厳格なる、最も高き、最も正確なるものが、その国民の間に支配的勢力を有すること」

にあるとしました。これこそまさに、この英国人ジャーナリストが見た日本のノブレス・オブリージュであり、近代日本の発展の原動力となった精神、武士道だったのです。

■忘れられた日本のノブレス・オブリージュ

しばらく前に、ネット上であるコラムが話題になっていました。それは、アメリカはシリコンバレーのコンサルティング会社で活躍する女性によるもので、「日本はエラくもないが卑下したもんでもない」というタイトルでした。

日本はたくさん良いことを国際的にしているのに、そのアピールが弱くて損をしているのでは」と歯がゆく思い、その理由として外務省の役人が挙げた自虐的な理由に対する異議申し立ての形をとった主張です。

全体として興味深い考察の面白いエントリだったのですが、次のくだりに、僕は強烈な違和感を覚えました。

日本では、「日本は小さい取るに足らない国」という「自己矮小概念」がなんとなくまかり通る。で、時として、それに反発して、「日本人は他より優れた民族、日本文化は他より優れた文化、日本人はエライ」という「選民思想」的な発想が痙攣的に起こる、ような気がする。
(略)
なぜ、「どうせウチラはダメ」と「オレサマがエライ」という二つの間違った両極端の間を行き来してしまうのか。

私はこの理由を、日本には「Noblesse Oblige」という概念がない(もしくは忘れられてしまった)からでは、と思うのでした。

Noblesse Obligeはもともと「貴族たるものが負うべき義務」ということだが、「強者が弱者に対して負う義務」といった意味で使われる。日本は、広く国民一人一人が世間に迷惑をかけない、という「薄く広い責任」については非常に意識が高いと思うが、「強者が弱者のwell-beingに責任を持つ」っていう概念はあんまりないのでは。もしかして明治時代くらいまではあったのかもしれないけど
On Off and Beyond: 日本はエラくもないが卑下したもんでもない

(太字引用者)

この記事の投稿から10日が経過し、記事に対して30件以上のコメントが、はてなブックマークで200以上も付いていながら、どこにも指摘がないのです。まるで、日本には本当にノブレス・オブリージュなどという概念自体が存在しなかったかのように! 僕も開いた口がふさがりませんでした。

そこで今さらながら、日本のノブレス・オブリージュ、武士道について「被告の立場」となって弁明したく、こんな長文エントリを書いた次第です。

■武士道の説くノブレス・オブリージュとは

『武士道』という本があります。この本は、約100年前に、アメリカで新渡戸稲造博士によって出版されました。西暦1900年当時、日清戦争の4年後、日露戦争の5年前。近代史上に突然姿を現した極東の新国家に対する無理解と偏見を、この本が打破したと言っても過言ではないでしょう。例えば当時の米大統領ルーズベルトのごときは、この本を徹夜で読破し、数十冊ほど買い求めて周囲に配ったほどだったそうです。

我々がなんとなく知っているような気がする「ブシドウ」という言葉、この本の冒頭には、それが明確に定義されています。

武士道シヴァリー (chivalry)はその象徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。それは古代の徳が乾からびた標本となって保存せられているのではない。それは今なお我々の間における力と美との活ける対象である。

それを生みかつ育てた社会状態は消えうせて既に久しい。しかし今はなき遠き星がなお我々の上にその光を投げているように、封建制度の子たる武士道の光はその母たる制度の死にし後にも生き残って、今なお我々の道徳の道を照らしている。

私がおおざっぱにシヴァリー(chivalry)と訳した日本語は、その原語において騎士道ホースマンシップ というよりも多くの含蓄がある。
「ブシドウ」は字義的には「武士道」、すなわち武士階級がその職業、および日常生活において守るべき道を意味する。
一言にすれば「武士の掟」、すなわち武人階級の「身分に伴う義務 ノーブレス・オブリージュ 」である。
(原語:…the ways which fighting nobles should observe in their daily life as well as in their vocation; in a word, the “Precepts of Nighthood”, the noblesse oblige of the warrior class.) (『武士道』)

100年前です。おそらく、これが一般の日本人に対して初めてこの「ノブレス・オブリージュ」という用語が紹介されたときではないでしょうか。そしてこの武士道は、最初は支配階級に課せられた義務だったにしても、長い年月を経るうちに、人々の間の基本的な道徳心として普及するに至ります。

■不言実行の道徳

武士道は、上述のごとく道徳的原理の掟であって、武士が守るべきことを要求されたるもの、もしくは教えられたるものである。それは成文法ではない。せいぜい、口伝により、もしくは数人の有名なる武士もしくは学者の筆によって伝えられたる僅かの格言があるに過ぎない。むしろそれは語られず、かかれざる掟、心の肉碑に記されたる立法たることが多い。不言不文であるだけ、実行によって一層力強き効力を認められているのである。  (『武士道』)

こうして武士道は「不言実行あるのみ」の文化として継承されました。「知行合一」を説いた陽明学の影響や、多弁を慎む論語の影響もあり、自分の手柄を誇るような粗忽者は軽蔑されたのです。

また『武士道』の説く武士の(ひいては日本人の)特長、徳目には次のようなものがあります。

勇、仁、礼、誠、名誉、忠義。

中でも「人の上に立つもの」の身につけるべき素養として、仁はとくに重要視されました。仁は、「仁義」の仁です。これも分かったような分からないような言葉ですが、いわゆる「武士の情け」です。盲目的な情ではなく、正義に対する適切な配慮をもった慈悲の心を指します。

「弱者、劣者、敗者に対する仁は、特に武士に相応しき徳として賞賛せられた。」(『武士道』)

「仁」とは、血縁関係の親愛の情から発展して、無縁の人にまで広げていくものです。武士道の理論的バックボーンをなした論語にも、「孝悌は仁の根本である」とあります。
いわばそれは公的な義務であり、真のリーダーシップと言えます。私利私欲の追求は、武士道においては最も軽蔑され、武士は公義に生きるべし、とされました。私達の周囲を見てみても、私利私欲を追及する人に、人は決して心から付いてきません。(現代日本の一部政治家達の姿を見ると暗澹たる気持ちになりますが…)

先掲のコラムでは、日本の国際貢献がアピールされていないことに対するふがいなさ、ノブレス・オブリージュの概念の希薄さが指摘されていました。

しかし僕は思うのです。これもむしろ逆ではないか、と。見返りを求めない慈悲の心、黙して語らぬ克己の精神こそが、真のノブレス・オブリージュ。武士道によって称揚された仁の心だったのではないでしょうか。

(つづく)
洗脳の世代 ~武士道~(2) (朱雀式)

4003311817  456966427X

(櫻木)