コラム

本当にやればできる?

「やればできる子」という表現がある。言うまでもなく、これはできない子を慰めるための気休めである。まあ、子供を慰めるために言うだけなら別にまだ構わないが、昨今はいい大人になっても「俺だってやればできる」等と言いながら何もしない人間が多い気がする。


あえて言おう。「やればできる」なんて言うのは幻想だ。

…とは言うものの、「やってもどうせできない」という意味ではない。

「やればできる」なんて思っている奴というのは、結局やらないからどうせ何もできないのだ。

できる奴は、「やる」のだ。それ以上でもそれ以下でもない。ただ「やる」。「やればできる」ではなく、「やるからできる」のだ。

「なせばなる」という言葉がある。これを、「成せば成る」と誤解し、つまり「やればできる、できるったらできるんだ!」という単なる精神論・根性論だと思っている人は多い。

しかしこれは実際には「為せば成る」である。

「成す」とは「やり遂げる」という意味。
すると「成せば成る」では、「やり遂げるからやり遂げる」となり、これはトートロジーの世界であって、文章としてほとんど意味を成さない。

「為す」とは、主体的に「行ないをする」という意味である。
つまり「為せば成る」とは、自らが意志を持って事に当たる、主体的に実行するからこそ物事が成就するという意味なのだ。

ちなみに、この格言はこれだけで終わりではない。上杉鷹山の言葉では、後にこう続く。

為せば成る
為さねば成らぬ
何事も
成らぬは人の
為さぬなりけり

「できない」のは、その人が実行しない、「やろうとしない」からだ、というものである。
世の中の成功する人、身の回りの実力のある人も、その根源にあるものが何かといったら、「実行力」だと思う。

ちなみに、武田信玄版ではこう続く。

為せば成る
為さねば成らぬ
成る業を
成らぬと捨つる
人の儚き

(櫻木)