ブログ論

で、別に誰かに見られないとやる気が起きないとか、そういうのマジビタイチないね。6hot上等。

人は一体どれだけの期間、6hotに耐えられるのか – おれはおまえのパパじゃない

「人は一体どれだけの期間、6hotに耐えられるのか」を命題とするならば、結論としては「耐えられる人はいても平気な人はいない」んじゃないでしょうか。ずっと6hotだと、やはりどこかに物足りなさ、ある種の「飢え」はあるはずです。それが自己承認欲求。

でも、この「承認欲求」というやつは、日本では基本的に気恥ずかしいものとしでて扱われているので、「自分は気にしない」という人が多いのも事実です。…本当に本当でしょうか。
おそらく、本当に「平気」と言い切れるのは、純粋にメモとして利用しているだけの人か、もしくはアニさんのように既に成功している本サイトがある人か、どちらかしかないと思います。「山なんて登ってみても何もないよ」と言えるのは、山の上の風景を見たことある人だけです。

そもそも人はどんな共同体においても、複数の人がいる限りは、自己承認欲求が満たされないと焦燥感を覚える社会的動物です。マズローの五段階欲求説で見ると、生命維持など下位の欲求が満たされた人間は、自己承認や自己実現など、より高次の欲求を抱くようになります。日本では、生命の危険に冒されながらネットをしているような人はほとんどいないため、ブログをやる人のモチベーションの多くは、自覚するとしないとに関わらず、承認欲求が背景にあるはずです。

それは果たして「キモい」ことなのでしょうか。

しかしその一方で、あまりにもあからさまにそうした欲求の存在をWebというオープンな場に公開するというのは、人間の姿勢として恥知らずに過ぎるのではないかというようにも思えます。
ブロガーは自分のキモさとどう向き合っているの? | 住 太陽のブログ

この記事の主張では、「俺を見てくれ!」と目立ちたがりの記事を書きまくって、反応を集めて気持ちよくなっちゃっているような行為=ブログが全般的に「キモい」ということで定義付けられているんですが、果たして本当に「キモい」んでしょうか。「キモい」という表現がキモいので、以下は普通に「気持ち悪い」と言い直しますが、決して気持ち悪くはないと思います。

日本人は昔から、「武士は食わねど高楊枝」とか、国際社会で認められるために近代化とか、人一倍隠れた承認欲求が強い国民性を持っていますが、同時に「出る杭は打たれる」ように、それを表立って表現することを非常に嫌う民族でもあります。

でも、それ(承認欲求)は、全ての人が持つ当たり前の感情、本能的欲求だとすれば、恥ずかしいことではないと思います。

もし人に承認欲求がなければ、クフ王のピラミッドもないし、宗教も戦争もなく、およそ人類の文明的発展はほとんどなかったんじゃないでしょうか。三国志なんて英雄達の自己顕示と承認欲求の大奔流ですよ。それが覇業ってもんでがしょう!

でも、アニさんのように「別にいらねーよ」っていうスタンスを取れる人の方が、格好良いし売れるんですよね。それはさながら学園ヒエラルキーにおける、モテる奴は余裕があるのでますますモテ、モテざる者はガッツいてるのでますますモテない、という非モテカースト・スパイラルにも似ています。

(櫻木)