歴史と日本

ミャンマーの反政府デモの取材中に射殺された日本人カメラマン、長井氏の遺体が、四日午前、成田空港に到着した。

長井氏は、背後から肝臓を打ち抜かれて射殺されたという。

この問題を語るについては、いろいろな側面がある。
ジャーナリズムの危機、他国の軍隊による日本民間人の殺害。

しかし、僕はもっとも大きいのは、大東亜戦争の日本の遺徳が薄れつつあること、とりわけ東南アジア地域におけるそれが、急速に消滅しつつあることが象徴的に明らかになったことだと思う。

ミャンマー(ビルマ)においても、その独立には日本の果たした功績はとてつもなく大きかった。かつて日本は彼らの国土から白人の支配者を駆逐し、独立を承認し、武器を与え、自ら戦う術を教えた。こうした光景は、当時アジア全域で見受けられた。それまで白人列強国に支配され、従順な家畜の如く扱われてきたアジア人たちが、白人が全知全能の神でないことを知り、自らも立ち向かうことができるようになったのは、まさに日本の功績だった。ミャンマー(ビルマ)もまたそんな国のひとつだった。

そんな国で、日本人が、日本人に育てられた軍隊に射殺されたのだ。

ミャンマーの近現代史

20世紀前半までのビルマは、イギリスの植民地として厳しい収奪の管理下に置かれていた。(自治領にもなったが、名目のみだった)

やがて大東亜戦争が始まり、破竹の勢いで進撃した日本軍は、ビルマにおいては「南機関」という特務機関を設置し、ビルマ独立の志士たちに武器を与え、軍事教練を施した。「ビルマ独立義勇軍」を組織し、共にイギリスと戦うことになる彼らは、後のビルマ国政府である。

日本はビルマから英国軍勢力を駆逐すると、「東亜解放」の理念に従い、すぐさまビルマの独立を宣言した。

しかし、インパール作戦を契機に日本の敗色が濃厚になった1945年3月、アウン・サン(アウン・サン・スーチー女史の父)率いる勢力はクーデターを起こし、日本とビルマ国政府に反旗を翻して、イギリス側に寝返った。

このときの寝返りに対する引け目からか、現在のミャンマーの学校教育では、日本とイギリスが共に悪の帝国として教えられている。

しかし戦後まもなくはそうではなかった。ビルマの人々は、日本の行為を正当に評価し、恩義をも感じていた。裏切ったアウン・サンにしてもそうだった。

戦後のミャンマー

戦後のイギリス軍が、南機関長だった鈴木敬司将軍をビルマで軍事裁判にかけようとすると、アウン・サンは、「ビルマ独立の恩人を裁判にかけるとは何事か!」と猛反対し、鈴木将軍は釈放された。

その後、鈴木将軍には、ビルマ最高位の勲章である「オンサン(アウンサン)徽章」が贈られている。

そうした日本の記憶も功績も、わずか60年で過去の話として朽ち果てようとしている。
それは戦後の日本が理念を失い、金をばらまいて恩を売るだけの卑しい国に成り下がったからではないだろうか。

これまでの日本の世界的な躍進は、過去の日本人が文字通り身を賭して築いた、大東亜共栄圏の功績の上にあったと言ったら、言い過ぎだろうか。

参照リンク
ビルマ独立と日本軍
ミャンマー – Wikipedia
②ミャンマー(ビルマ)ウ・オッタマとアウン・サンと日本軍南機関:イザ!
asahi.com:政府、処罰要求を検討 武力弾圧は3日連続に 邦人銃撃 – 政治
asahi.com:ミャンマーで死亡の長井健司さん、遺体が帰国 – ミャンマー情勢

4569630588ビルマ独立に命をかけた男たち
1826年から115年の長きにわたりイギリスの植民地だったビルマ(現ミャンマー)が独立を果たしたのは1942年。太平洋戦争開戦とともに破竹の勢いで進軍する日本軍が、イギリス軍を駆逐し、首都ラングーンを陥落したときである。じつは日本軍は、開戦前からビルマ独立に燃えるアウン・サン将軍(現在、軟禁の身にあるアウン・サン・スー・チー女史の父)らを秘密裏に訓練していた。その中心が鈴木敬司大佐を長とする南機関。また、独立後の政権を担ったバー・モウ首相、初代駐日大使テイン・マウンらを民間人の立場から陰で支えたのが、著者の父・岡田幸三郎氏である。本書は「ビルマ人のためのビルマ」をつくろうと燃える日本とビルマの男たちの友情のドラマであり、日本軍敗退後、再びイギリスの支配下に置かれる過程で次々に命を落とす志士たちの悲劇の物語である。日本のビルマに対する功罪も描かれ、太平洋戦争の意味を問う力作となっている。

(櫻木)