時事問題

愛知たてこもり事件にて被弾した木本巡査部長の回復と、殉死した林巡査部長の冥福を祈ります。

巡視した林巡査部長は、警察学校を首席で卒業し、警察官になった後は3年で柔道の三段になるほどの熱心さと身体能力を備え、将来を嘱望される隊員でした。私生活では、まだ1歳にならない愛娘がいて、大層かわいがっていたそうです。

生き延びたヤクザ崩れは、DV男でヤク中の疑いがあり、刃物や拳銃を振り回し、近隣住民を常に威嚇し、社会に何ら益することのない人物だったそうです。

なぜこのような事件が起こったのでしょうか。
なぜ我が国の警察が誇る精鋭部隊SATの隊員が死ななければならなかったのでしょうか。


92年に施工された暴対法の締め付けによる暴力団の凶悪化、犯罪シンジケート化(伝統的シノギから麻薬・拳銃密売等へ)に伴って、暴力団による拳銃を使った凶悪犯罪が増えています。

しかし、今回の事件は、それ以上に警察側、いや日本国家の構造的な欠陥が明るみに出た問題といわざるを得ません。

凶悪犯の人権はそんなに重いか

SATは、その所属が警察である以上、警備が主任務です。つまり、どれほど隊員が特殊な訓練を積んでも、どんな危険な場所で運用されても、基本的には警備行動しか取れないということを意味します。

かつて、犯人を狙撃した日本では警察が拳銃を発砲するたびに、それが「不祥事」扱いされて左派系メディアが糾弾する風潮がありました。
きっかけは、1970年に、凶悪犯を射殺した狙撃主が人権派弁護士によって訴えられるという異常事態が発生したことにさかのぼります。それ以来、篭城事件に対して警察は手詰まり状態のまま説得を重ねるのが基本戦略となってしまい、あさま山荘事件(1972年)では警察官の殉職にもつながりました。

撃たれてからではないと反撃できない、しかし撃たれたら一巻の終わり。しかも、今回は警官が撃たれているのにも関わらず、反撃しなかったのです。一体、35年もの間何をしてきたのでしょうか。

貧弱な装備では意味がない

もちろん、これは現場の警察官や特殊部隊の隊員達の責任では決してありません。殉職した林巡査部長も、小学校の頃から警官になることを目標として体を鍛えていた、正に武士道の鏡のような警察官でした。

下記引用は、先月の町田事件の時に書かれていた、防弾チョッキの開発者の手記とされる文章です。

 日本のそれまでの防弾チョッキを納入していた各「官給品メーカー」どもは、「完全な税金ドロボウ」で、今だから云うがボクの設計したものが登場するまでというもの、『トカレフで撃たれたら一巻の終わり』だったのである、実際に犠牲になった気の毒な警官さえ出ていた。

 防弾のための肝心の「ケブラー繊維層」が、「経費節約のため」背中側が省略され挿入されず(「だから納入価格も半分になったと」当時の警察庁コッパ役人は胸を張ったそうだ)、正面からの銃弾しか役を成さない。これはアメリカの警官に笑い話として話をした時に、彼らは笑いを失い、真顔で『それで抗議などは出ていないのか』と度肝を抜かれた様子だった、つまりそれほどに世界の常識ハズレであることを物語る。

 町田の現場映像でも、何人もの交番警官がそんな時代の遺物を引っ張り出して着用していた。

 ケブラーなんてシロモノを「夢の繊維」だなんて、まだ言っているのは日本人くらいなもの。
 長々と米軍御用達つづけ、明けても暮れても防弾チョッキの主要素材として伝統的に米兵の身をを守ってきたが、それもヴェトナム戦争の初期段階でこれが捕獲・研究され、東側によってその繊維の弱点は研究され尽くしてきた。

 その上で「トカレフ」や自動小銃の「AK47(や74)」用の標準仕様弾丸が生まれてきた。

 銃こそは旧式だが、《ケブラーを貫徹するための設計》の銃弾である事に日本の警察や防衛庁が気付いたのはつい最近の事、他でもない身内から犠牲者を出してから気付いたのである。 (My Diary 2007年4月

また、警察官達が持っていたジュラルミンの盾は旧式の装備で、せいぜいが暴徒の鎮圧用。すでにあさま山荘事件で、犯人の銃弾が簡単に貫通してしまったものです。つまり、彼らはまったく気休めの装備で、しかも反撃も禁じられながら、銃を乱射する狂人を「捕まえ」なくてはならなかったのです。

しかしそもそも防護力が高ければそれでいいのかという問題ではなく、根本的な問題点は、警察側が有効な攻撃、つまり凶悪犯の射殺ができないことにあります。軍事評論家の佐藤氏も次のように指摘されています。

政治家や上層部は「不運が重なった。ショックだ」といい、防護装備の改善を検討する、などというのである。昔の騎士のように鎧兜を纏うつもりなのか?軍事を軽視し、攻撃精神を忘れたツケが、とうとう警察にも蔓延した様に思われる。

公権力の戦闘力を強化せよ

士気と能力の高い隊員を擁しながら、上層部の無為無策と貧弱な装備で現場に犠牲を強いる。これはあさま山荘はおろか、旧帝国陸軍、日露戦争の昔までさかのぼってもまったく直っていない日本の悪弊です。

こうした異常な設定は早急に改めるべきでしょう。あのニュース中継を見ていた多くの人が「警察は何をしてるんだ」「突入はまだか!」とイライラしたのではないでしょうか。仲間を銃撃されながら、その救出さえも禁じられている現場の警察官たちの悔しさはいかばかりでしょうか。

あの光景は、改めて国内外に「日本の警察は何があっても発砲しない」という致命的な欠陥を暴露しました。今後も、こうした拳銃を使った凶悪事件は次々と発生することでしょう。

瀬戸内シージャック事件以来、左派メディアが警察の発砲事件を「不祥事」扱いしていたのも今は昔、おそらくすでに絶対平和神話を信じていない大多数の国民は、かつてほどの暴力アレルギーや人権信仰など持っていないはずです。

警察権力には、その使命である国内の治安を守るために必要最低限の戦闘力を持っていてほしい。そして、いざという時にはそれを正当に行使して欲しい。

これは「普通の人」(一般国民)に共通する当たり前の願いなのではないでしょうか。

・参照URL
機動隊 – Wikipedia
あさま山荘事件 – Wikipedia
日本の特殊部隊について

家から出てきた大林容疑者に対して、警察は「約束どおり出てきてくれてありがとう」などと、安心させるような形で語りかけていました。(「愛知の立てこもり事件、男を逮捕」 News i – TBSの動画ニュースサイト

(櫻木)