Web論

人は6hotには耐えられない – 朱雀式

↑これに対し、「自分のブログが6hot(アクセス数が極端に少ない状態)でも平気」という反応がやはりある。本当だろうか。本当に、本当だろうか?

ではなぜ、オンラインで書いているのか。誰にも見られなくていいのなら、ローカルファイルに書いて保存しておけばいいではないか。
ブログがツールとして便利だというなら、アクセス制限して自分しか見えない状態にしたり、はてなのプライベートモードで書いたりすればいいのではないか。
もし、「友人など、限られた人にだけは見て欲しい」と言うのなら、それはすでに承認欲求である。

6hotでも更新し続けられる人々 – 琥珀色の戯言

↑例えばここで取り上げられているのは、id:fujiponさんの親御さんや昔の人など、ノートに日記を書くしかなかった人の話。日記を不特定多数の人に見せることなど思いもよらない、そんな手段がない人は、そもそも「人に見られたい」なんていう欲求を持たない。

現代の日本人がブログを運営し、その人たちがしかも人に読んでもらえないと耐えられないのには、いくつか理由がある。

・一度体験してしまうと戻れない

まず、ノートに日記を書くしかなかった時代と今とが明らかに違うのは、インターネットというテクノとジーがそこに「ある」ということです。テクノロジーというのは、基本的に後戻りできない。洗濯機もインターネットも核兵器も、今更「なかった昔」に戻すことはできないものである。

しかも、ブログ運営には一種形容しがたい吸引力がある。一度華やかなスポットライトを浴びる快感を知ってしまった芸能人がなかなか「普通の生活」に戻れないのと同様、ブログの「味」を知ってしまった人も、そこから完全に抜け出すことが難しくなるのだ。

・人はより高次の欲求を求める

欲求は段階なので、リアルな貧困層の少ない日本人は自己承認欲求が強くなる傾向にある。
もっと単純な話としても、「ブログを開設する」という段階の次には「人に読んでもらう」が来るのも当然の話。

・日本人の価値観

そうはいっても、沈黙が美徳とされる日本では、未だに自己顕示欲や事故承認欲求は半タブー視され、表だってアピールすることは疎まれる。日本はアメリカではないのだから、これはこれでいいことだと思う。
そして、現実社会で発散しづらいそれら欲求の放出先が、インターネットで求められた結果が「ブログブーム」、「オレオレブログ」なのである。

・漂流する日本人のアイデンティティ

敗戦以来改造されたまま、アメリカンスタンダードに飲み込まれてどんどんアノミー化が進んでいく近代日本では、経済も歴史教育も崩壊したせいで、若者がアイデンティティを保てなくなっている。という指摘。

・認められないニート世代

国家レベルでなくとも、かつての日本の村落共同体や、三世代の大家族などのコミュニティが崩壊した今、「自分の存在を無条件に認めてくれる」存在が希薄になっている。

また、長引いた就職氷河期や景気後退の影響で、正規雇用にありつけないニート・フリーター層は、おそらく現実社会で認められる機械が少なく、自己承認欲求を持て余しているのではないか。

と、ここまで書いてきて気付いてしまったのだが、日本人のWEB日記にはもうひとつの型が存在しているのではないか。これまで僕はしばしば「精神安定のために心情を吐露するような日記」を書く、「日記セラピー」(俺命名)というタイプの日記の存在を指摘してきた。
だがこれとは別に、ブログの運営によって承認欲求を満たす「ブログ承認セラピー」によって精神を安定させている人も、潜在的に結構いるのではないだろうか。

(櫻木)