時事問題

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上野動物園で、パンダのリンリンが死亡しました。野生を離れ、遠く日本の動物園で、20余年間多くの子供達を楽しませてくれたパンダの死を悼みます。

しかし、それはそれとして、この「パンダ不要論」にも一面の真理があることを認めざるを得ません。

東京の上野動物園で4月30日に死んだジャイアントパンダ「リンリン」について、石原慎太郎都知事(75)は2日の会見で「別にみんなで大泣きして悲しむほどでもないじゃない」と言い放った上、「(パンダなんて)いてもいなくてもいいじゃない。そんなもんは、どうでも」とつれない言葉を連発。
慎太郎都知事、パンダいらない!(スポーツ報知) – Yahoo!ニュース

「言い放った」等の表現の選択に記者の敵愾心が伺えますが、これっていわゆる「暴言」ってことなんでしょうか。確かに表現は多少ぶっきらぼうではありますが、内容はごく当たり前の正論だと思います。命あるものはいつかは死ぬ。これは自然の摂理です。もちろんそれは悲しいことではありますが、だからと言ってパンダの死を全国民が嘆いて喪に服さなくてはいけないという道理はありません。

他にも、動物園ではたくさんの動物が死んでいっているはずです。なぜパンダばかりことさら問題にするのか。動物愛護団体は、命の価値に軽重をつけるようなこの風潮を厳しく糾弾しなくてはなりません。

…まぁ勿論、命に軽重はあります。一番の尺度は個体数と繁殖率の需給バランス。イワシの命は軽くて、マグロの命は重い。パンダは世界的にとても数が少ないので、重い。

パンダは政治的動物

AmnestyShooting

そしてそれはとりもなおさず、パンダが「政治的な動物」であることを意味します。中共が「パンダセンター」等を作って、国策としてパンダの飼育に当たっているのは、何も「パンダが愛くるしい動物だから」ではなくて、「政治的に有効利用できるから」なのです。案の定、福田総理は「胡錦濤が来たらパンダを貸してくれるようにお願いする」と話しているそうです。ちょろいもんです。
パンダのレンタル料に国庫から1億円の巨費を投じ、もし子供が生まれても親権は中共に奪われ、その上なぜか養育費を年間数千万円要求されるという。

さらにパンダが「政治的動物」である理由があります。パンダは、チベット産の動物なのです。中共からパンダを借り受ける、貰い受けるということは、中共によるチベット侵略と民族弾圧を肯定することにつながります。

第一次チベット動乱のときに大虐殺を指揮し、今またチベット人を虐殺し続けている指導者、胡錦濤をこの時期に日本にお迎えするということは、中共によるチベット大虐殺を、肯定どころか「支持」するものとして国際社会に評価されることでしょう。
日本にいると、「もうチベットもだいぶ落ち着いたのかな」と勘違いしてしまいそうになりますが、今でも首都ラサでは、多いときは日に150を超える遺体が火葬場に運び込まれているそうです。勿論、火葬場に運ばれずに消えていく遺体はもっとあることでしょう。

パンダに罪はありません。僕も子パンダは大好きです。日本の子供達を楽しませてくれたリンリンの冥福を祈ります。
しかし、今まさに銃弾を浴び、拷問され、死んでいっているチベット人の命よりも、パンダのレンタル交渉が重要であってはいけないのです。

国民感情!?

上野動物園の売店からは、都知事発言を批判するこんな声も。

「パンダサブレ」を売る売店支配人・光野真二さん(54)も憤慨。30日以降も売り上げは落ちておらず「上野のシンボルはパンダ」を痛感した。それだけに「都知事は国民感情を無視している」と指摘。
痛いニュース(ノ∀`):「国民感情を無視している」 石原都知事の“パンダ不要論”に上野の売店激怒

なぜこの人が「国民感情」を勝手に代表しているのか知りませんが、僕も一国民の感情として言わせてもらえば、「中共のパンダは不要」です。胡錦濤に土下座し、1億円のレンタル料を払って、チベット虐殺の目くらましになるだけの「パンダ外交」ならお断りです。

(櫻木)