いわゆる“年越し派遣村”の問題、派遣村叩きの問題について。
「国が保護して当然だ」とばかりに、オルグしてシュプレヒコールをあげるボランティア運営スタッフ達の姿や、「きつい仕事はしたくない」と言わんばかりの雇い止め労働者たちの姿勢に疑問を覚えることもある。
しかし、「弱いもの達が夕暮れ、さらに弱いものを叩く」かのように、中流から下層に落ちなんとしているかもしれないのに、「甘えるな」「働け」とブルースが加速していくのもあまり見たくない。
この派遣問題の是非はひとまずおいておいて、この「日本人の国民性」という話題について考えてみたい。
番組の最初に紹介された「独裁者ゲーム」(利益の配分を勝手に決められるとき相手にどれくらい分け与えるか)実験での配分率が私の予想より低かった。「日本人はけっこうお人よしだから、7割か8割が均等に分けるんじゃないか」と思っていたら、実際に半分を分け与えた「独裁者」は52.1%だった。「おやおや」と思っていたら、番組の最後に紹介された諸外国と日本での調査結果はさらに意外だった。
普通、常識として信じられていることに、「日本は信頼社会であるのに対して、アメリカは信頼よりもドライな契約関係が重要視されている」ということがある。しかし、調査によればこれとは全く逆の結果があらわれている。
* 「たいていの人は信頼できると思いますか」に「はい」と答えた人 ・・・・・アメリカ47パーセント、日本26パーセント
* 「他人はスキがあればあなたを利用しようとしている、と思いますか」に「そんなことはない」 ・・・・・アメリカ62パーセント、日本53パーセント
* 「たいていの人は他人の役にたとうとしていると思いますか」に「はい」 ・・・・・アメリカ47パーセント、日本19パーセント安心社会から信頼社会へ
ちなみに私の答えは、「たいていの人は信頼できると思いますか」には「(どちらかといえば)はい」、「他人はスキがあればあなたを利用しようとしている、と思いますか」には「そんなことはない(だろうと願う)」、「たいていの人は他人の役にたとうとしていると思いますか」には「はい(そうだといいね)」である。
アメリカよりも他人に厳しい調査結果にびっくり、というかなんてこった、というか。
私のセルフイメージは合理性を尊び不人情なモヒカン族だったのに、実はよっぽどお人よしだったらしい。「日本人ってけっこうお人よしだよね」と思い込んでいた私こそがお人よしだった。そんなことはどうでもいいのだが、山岸教授によれば日本人が他者を信頼する傾向は調査した国の中でもっとも低い部類に入るそうである。端的に言えば日本人は人を見たら泥棒と思い、世間の人たちの大部分は身勝手だと信じている。信頼よりも疑い、優しさよりも警戒感、希望よりも絶望が勝っている。
私とて日本が好きな日本人なので、こんな調査結果は信じたくない。「心優しい日本人」像にしがみつきたい。たぶん調査に答えた人たちは「なんだか難しくて厳しい調査だな」と心を閉ざし、「お人よしと見くびられたくない」と突っ張ったのだろう。だからこんなに不信感と利己主義が強く表れたのだ。不信感が強く出たのは本来の優しさの反動だ、きっとそうに違いない。
…と信じたいのだが、諸外国の中で日本だけそのような影響が強く現れたという根拠は何もない。
「派遣村」叩きに日本の国民性を思う – 玄倉川の岸辺
「日本人は他人を信じない」
さて、この調査結果はそれほど意外だろうか。否、僕はこれは実に順当で妥当な結果が出たものだと思う。「お人よしで心優しい日本人」という美徳は、すでに過去の物語となっている。
過去の美徳を否定し続ける日本人
「日本人は心優しく、誇りを重んじる勇敢な民族だ」
果たしてどれだけ多くの人が、この命題に首肯できるものだろうか。「別に特に勇敢でもない…よなぁ…。」と首をかしげる人の方が多いのではないだろうか。もちろん、僕も含めて、だ。
しかし、かつて日本人は世界中、自他共に認める誇り高き戦闘民族だった。それは武士の時代から明治、昭和の前半まで、日本人は尚武の民として教育されてきたからである。
しかし、戦後のGHQ支配下でそういった伝統的な教育はすべて否定された。日本が再びアメリカに牙を向かないよう、教育界、放送業界が徹底的に思想改造された。
その結果、日本人は「心優しく従順、金と命を大事にする」という国民性を獲得した。これはこれで美徳、と言って差し支えない部分もあるかもしれない。
しかし日本はさらに妙な方向へ突き進んでいく。教育界を牛耳った左翼教師による、個性偏重と、反日自虐史観の洗脳教育が拡大再生産され、さらにそれで育った世代が社会に出て行くようになってきた。
「お前達の祖父は殺害者だ」
「日本はアジアに多大な迷惑をかけた侵略国家だ」
「国旗、国歌は侵略の象徴だ」
「何よりも大事なのは個性(自分の欲望)だ」
こんな風に教え込まれて育った人間が、果たして他者を信頼し、共同体に貢献するような人間に育つものだろうか。「国民性」といっても、何も遺伝的素質としてDNAで受け継がれるわけではない。家庭のしつけや地域社会とのかかわり、そして学校教育によって、じっくりと育まれていくものだろう。
「心優しい日本人」というのは、もはや「勇敢なサムライ」と同じく、過去の遺跡になろうとしている。今僕らがなすべきことは、「昔の日本人は立派だった」ということだけを知って満足するだけではなく、その「真の日本人像」に近づくためにはどうすればいいかを考えることだろう。
もちろん、「昔の日本人が立派だった」ことすら教えようとしない学校教育は論外だ。
(櫻木)
*たいていの人は信頼できると思いますか
*他人はスキがあればあなたを利用しようとしている、と思いますか
*たいていの人は他人の役にたとうとしていると思いますか
↓ 質問が逆サイドの問いかけだったらどうでしょう。
*たいていの人は信頼できないと思いますか
*他人はスキがあればあなたを利用しようとしているわけではない、と思いますか
*たいていの人は他人の役にたちたくないと思っている、と思いますか
この手の調査結果は「いいえ」と答えた人間が必ずしも逆の答えではないので
あまり役にたたないと思います。
たいてい の使い方が違いますね、すいません。
どちらかで選ぶ時に、「はい」とは言い切れない場合に
「いいえ」にするのではないかと思った次第です。
匿名saysさんも言われてますが、この設問は変です。
他の方のコメントを引用します。
Unknown (たんなん)
2009-01-11 17:46:29
拝見いたしましたが、ご引用の実験自体を不可解に感じています。
リンク先を拝見すると、山岸先生は
「信頼」とは、「相手の人格や行動傾向の評価に基づく、相手の意図に対する期待」のことである。
と述べています。
とすれば「相手の人格や行動傾向の評価」が出来ない場面では先生の言う「信頼」は成立しないと考えられます。
そこで実験の質問内容を見てみると「たいていの人」と言う言葉が使われていますが、そこには「相手の人格や行動傾向の評価」が出来ない見知らぬ人も含まれてしまうのではないでしょうか?
だとすれば定義した「信頼」の前提が成り立ちません。
「あなたの知り合いの人は、たいてい~」という質問でなければ、定義との整合性が取れない気がします。
端的に言えば、私は派遣村の方々に対して人格や行動傾向の評価が出来ません。
これも「信頼」していないことになるのでしょうか。だとすれば、彼らを「信頼」できる人たちはどれぐらいいるのでしょうか?
現代日本、他者の痛みに寛容な社会
派遣村にたむろしたブサヨどものおかげで、
おかしな方向に行き始めている「派遣切り」問題。
だからといって、派遣社員の苦境は変わりない。
そんな折、興味深いニュースが。
>1
確かにそうですね。「たいていの~」というあたりが人によって解釈の違いを生むため、実験結果としての正確性には疑問が持たれます。
>温野菜さん
知り合いでなくとも、広く「世間」として信頼できるのがたぶん日本的な感覚だったんじゃないかと思いますが、そういう意味では「たいていの人」ではなく「世間の人」とするべきだったのかもしれません。
ともあれ、僕はこの実験自体にはそれほど興味はなくて、「心優しくお人好しの日本人」というステレオタイプが、果たして現代の日本社会でも、あるいは今後の日本でも通用するのかどうか、という点について考えたかったのです。
古い記事ですが知っておくべき今の日本人の現実。:日本人は心優しくお人よしか? http://t.co/zQHsmutd