台湾

ニ・ニ八事件というのがある。戦後の台湾で、中国人(中華民国人)が台湾人を大量殺戮し、その後の暗黒の時代が始まるきっかけとなった事件だ。
台湾の事件とはいえ、この事件は、日本とも非常に関連の深い事件なので、ぜひ知っておきたい。

台湾の歴史

日清戦争後、1895年から台湾は日本の統治下に入った。当時の台湾は「化外の地」と言われ、伝染病のはびこる不毛の島だったが、日本人が治水や道路などの各種インフラを整え、病院や学校などを多数建設し、わずかのうちに台湾は内地(日本)と同等以上に発展した。
台湾の治安は「夜不閉戸」(夜でも鍵をかけなくても良い)と言われるほど良く、台湾人と日本人は一体となって幸せな時代を過ごした。
(詳しくは拙ブログ『台湾はなぜ親日なのか ~台湾史の基礎知識~ | 朱雀式』を)

国民党の植民地支配

ところが、日本の敗戦によって台湾の運命が変わった。降伏した日本軍の武装解除のために、大陸から蒋介石の国民党軍がやってきた。台湾人は、日本の統治から解放され、大陸からきた同胞(と思われていた)と共に新しい台湾を作っていけると思っていた。
しかし、期待は無惨に打ち砕かれた。

国民党軍は、日本軍が建設した統治機構や莫大な資産をそのまま乗っ取り、日本に変わって支配者として君臨した。この図式は、インドネシアを再侵略しようとしたインドネシアに似ているが、台湾人は大陸シナ人を同胞と思いこんでいたが故に、警戒感を抱けなかった。

台湾は、民度の劣る側が統治するという珍しい国になった。ろくに字も読めず、汚職や強奪が当たり前のシナ大陸式の考えしかない者が行政、経済を握ったため、台湾は極度の混乱に陥った。治安は瞬く間に悪化し、経済も崩壊し、物価は高騰し、民衆の生活は窮乏を極めた。

台湾人(日本人)の蜂起

色々な物産品が国民党の資金源にするため、あるいは役人の私腹を肥やすために専売になり、その品目は日本時代より倍増した。タバコも中華民国政府の専売になっていたが、生活苦に悩む庶民は闇タバコを売り買いしていた。ある日、市中を見回っていた取締員が闇タバコを売っていた中年女性を見とがめ、そのまま往来で殴打、暴行した。

取締員は、「お金だけは取り上げないでくれ」と懇願する女性を銃の筒先で失神するまで殴りつけ、出血して倒れている女性からタバコと有り金全部を没収した。

あまりのことに激怒した群衆が取り囲んで抗議すると、取締官は驚き、逃げながら発砲し、死亡者が出た。

これがきっかけだった。敗戦から2年間。国民党政府の弾圧に耐えかねていた民衆の怒りに、火が着いた。

最後の軍艦マーチ

翌日、群衆は専売局に詰めかけ、職員を引きずり出して、文書や備品を焼き払い、デモを行なった。
これに対し、国民党の憲兵が機関銃で発砲し、多数の死傷者が出た。

デモは、暴動に発展した。

放送局を占拠した群衆は、ラジオを通じて台湾中に蜂起を呼びかけた。このとき中心的な役割を果たしたのは、日本の教育下で組織された各地の青年団や、退役軍人達だった。

「台湾人よ、立ち上がれ!」
「大日本帝国陸軍○○部隊出身の者は、台北市××に集合せよ!」

ラジオからは、「軍艦行進曲」など、禁止されていた日本の軍歌が流れ、台湾人の若者は一斉に蜂起した。旧日本軍人は、2年ぶりに日本軍の軍服に身を包み、集結した。
ニニ七部隊、阿里山ツオウ族原住民や青年団らが、各地で国民党軍と攻防戦を繰り広げ、国民党政府は追い詰められていく。

国民党の台湾行政長官は、市民代表との対話に応じ、事態は解決するかと思われたが、実はこれは単なる時間稼ぎで、南京政府の蒋介石からの援軍を待っているだけだった。

粛正、白色テロ、暗黒の時代

3月8日、アメリカから提供された機関銃で武装した1万3000人の国民党軍が到着し、掃討戦が始まった。いくら大規模な蜂起とはいえ、武装していない市民には太刀打ちできない。あっという間に台湾人の蜂起は鎮圧され、血の粛清が始まった。

基隆に上陸した兵隊は、何の予告もなく、突然埠頭で仕事をしている工人や苦力(人足)に対して機銃掃射を始めた。
数百人が、3~5人ずつ一組でかかとを針金で貫かれたり、鉄線で手のひらを貫いて数珠繋ぎにされたりして、一塊にして海中に投げ込まれて溺死した。
(基隆上陸後の惨劇の様子。台湾史学者楊逸舟・談)

高雄では、千余人の市民が集会中に、機銃掃射されて全員死亡した。
耳鼻や生殖器を切り落とされた上に殺された者や、トラックで市中を引きずり回されたり、木に釘付けにしたまま餓死させたりするという、シナ大陸式の残酷な処刑が台湾全土で行われた。
巡視兵はトラックで走り回り、道を横切ったり、三人以上でいる台湾人を見ると、即座に射殺した。

わずか2週間で、台湾人の2万8000人が虐殺された。

台湾の民衆運動を根絶するため、大学教授、弁護士、作家など、知識人が重点的にとらえられ、裁判もなしに処刑されていった。日本の優秀な教育の下で育った各界の指導層は全滅した。これによって、台湾は民主化だけでなく、文化、学問的にも戦前の先進国から一気に停滞国家になってしまった。

こうして動乱が鎮圧されたあとは、戒厳令がしかれ、恐怖支配が始まったのだった。この戒厳令は、1987年まで約40年間にも及ぶ世界最長の戒厳令となり、14万人が逮捕・投獄された。そのほとんどが冤罪だったといわれ、何人が死刑になったかは未だ不明である。

台湾の帰属、北方領土

戦後の台湾が民主化されるまでは、こんな苦難に満ちた歴史があったのだ。日本の戦後60年、GHQと朝鮮人による支配をさらに悪質にしたようなものだろうか。(こちらも未だ進行中)

ニニ八事件で蜂起したとき、台湾人は
「もうすぐ日本軍が援軍を差し向けてくれる」
と噂し合ったという。彼らは台湾人として、同時に日本人として、戦った。

『台湾紀行』で、司馬遼太郎が台湾の老婦人に「日本はなぜ台湾をお捨てになったのですか?」と聞かれ、絶句するエピソードがある。
こうした台湾人旧世代の気持ちに、日本は国としてこれまでほとんど応えることができなかった。

しかも、話はそうした情の話だけではない。台湾島で粛正された人々は、実はそのときまだ日本人でもあったのだ。この点については、KNN TODAYでも指摘されている。

日本は台湾の統治を放棄しただけであり、その帰属がどこにあるのかサンフランシスコ講和条約や日華平和条約にさえも書かれていなかったため、現在の台湾は「日本の領土であるが日本が統治を放棄しているため、台湾人の自治にまかせている」という状態なのです。

 ですから、二二八事件で本省人と外省人が対立し死んでいった者たち、国民党によって勝手に処刑されてしまった者たちは国際法上、皆日本国民だったわけで、それを私たちが知らぬ振りは出来ません。これは、今となっては北京の共産党が最も騒いでほしくない着眼点であり、露国にとっても(四島以上の)北方領土の帰属が日本にあることを証明してしまうことに繋がるとして、決して日本に論理武装してほしくない点であります。
遠藤健太郎ブログ『KNN TODAY』 : 対ロ外交で成果を急ぐな

台湾のの帰属問題は、戦後日本の領土問題、北方領土にもつながる。台湾がシナ本土に飲み込まれ、日本を囲む反日包囲網側に回ってしまう悪夢を回避し、北方領土問題で理論武装するためにも、ニ・ニ八事件の悲劇と、台湾国民党の非道を忘れないようにしたい。

(櫻木)