日本にこそノブレス・オブリージュがあった ~武士道~(1) (朱雀式)の続きです。
国民的道徳となった武士道
武士道は、元々は支配階級の心得、
武士道は最初は
選良 の光栄として始まったが、時をふるにしたがい国民全般の渇仰および霊感となった。しかして平民は武士の道徳的高さにまでは達し得なかったけれども、「大和魂」は遂に島帝国の民族精神 を表現するに至った。(略)本居宣長が、敷島の 大和心を人 問はば
朝日に 匂ふ 山桜花と詠じた時、彼は我が国民の無言の言をば表現したのである。
5~60代が引きずっているものは何か
しかし今や、武士道は消え去ろうとしています。(新渡戸稲造の表現とは別の、より深刻な意味で)。江戸と地続きの明治までは確実にありました。武士道精神が≒大和魂として、民衆の隅々にまで行き渡っていたからこそ、日露戦争という途方もない国民戦争を、平民出身の兵隊達がやってのけたわけです。
昭和初頭までもあったでしょう。でなければ、東南アジア史での功績や、硫黄島やアッツ島で戦い抜いた戦士達の行動に説明が付きません。
しかし、敗戦を境に日本の道徳・言論空間は180度反転しました。GHQはWGIP(War Guilt Information Program)と称して、徹底的な検閲と洗脳を日本人に施しました。
あらゆる出版・放送が検閲され、強力な自己否定教育が施されました。その結果、日本人としてのアイデンティティや、国際社会の中での振る舞い方について、まともに考えることすらできない人々が量産されたのです。
こちらのエントリ「On Off and Beyond: 日本はエラくもないが卑下したもんでもない」でも、以下のような感慨が述べられています。
やっぱり今50代とか60代の人って、若い頃海外に行くと、日本が貧乏だ、と肩身が狭い思いをしたのかも。
(略)
この方が会う日本の経済界のエライ人たちもみな、「結局日本って小国だし」というメンタリティの元に、「もっと強い国と、どうやって同列に見てもらえるか」という「劣等国議論」に陥りがちだそうです。やっぱり、若い頃のコンプレックスを引きずっているのでしょうか?一方、今20代とか、30代位の人は、日本が豊かになってから青春時代を過ごしたので、変な国際コンプレックスはあまりなさそう。そういう人たちが早く日本を担う人材になって欲しいです。そして、「強い国は厳しい責任を負う」ということを自覚した上で、びしっと国際関係を仕切っていただけると嬉しいです。
僕の見るところ、今の50、60代、いわゆる団塊の世代が抱え、引きずっているコンプレックスの根本にあるものは、戦後一貫して続けられてきた教育です。
それは例えば、
当時の小学生はしばしば教師に映画館へ連れて行かれたそうだ。そこで見せられるのは、米軍が撮影した記録映像。米軍の攻撃によって、日本の戦闘機が次々と撃墜されていく場面で、映画館の中に拍手が起きる。誰が拍手をしているのかと言うと、引率してきた教師達なのだ。曰く、これが当時の「平和教育」。
というようなでたらめなものでした。
「日本はロクでもない国です」「あなたの親は人殺しです」「日本は世界に迷惑をかけるから、おとなしくしてなさい」
物心ついたときからこんな風な教育を受け続けて、果たして堂々とした人間に育つことができるでしょうか。これを「洗脳」といわず何というのでしょうか。いかに日本人がサムライの末裔だったとしても、それは無理です。武士道は、いや道徳一般は、生まれてからの教育によってのみ身に付くものなのですから。
ある年代以降の日本人がとりわけ卑屈なのは、中華帝国が君臨していたからではありません。聖徳太子以来、日本はその脅威や柵封体制からは比較的自由でした。日本の精神を根本的に破壊したのはアメリカの占領政策です。
「アングロサクソンについていきさえすれば日本は安泰だ。善悪は関係ない」とまで言い放つ岡崎久彦のような人は、まさにその被害者とも言えるでしょう。
22歳まで日本人として教育を受けた、前台湾総統の李登輝氏は、その著書『「武士道」解題』の中で、こう述べられています。
自分が生まれ育った祖国に対する愛情や、「私は日本人以外の何者でもないのだ」という自己認識なくして、日本国民が国際社会から信用されるわけもないことは、「ロイヤリティー(Loyality)」という言葉をことのほか大切にしている欧米諸国の個人主義重視の観点からも明らかです。
僕の実感としてもこれはまさにその通りで、多少なりとも海外生活を送ったことのある人なら共感できるところだと思います。
海外では、自分の国の文化や歴史についてろくに知らず、敬意も払っていないような人間は、不気味に思われることこそあれ、あまり尊敬されません。
この『武士道』という本も、当時国際社会の第一線で活躍していた新渡戸博士が、全力をもって、しかも外国語(英語)で、自国の文化を紹介したからこそ、高い評価と尊敬を受け、ニッポンという国、文化の存在が広く知られることとなったのです。
今の世代は祖父の遺産を食いつぶしている
今、日本人が、生まれたときから世界最高水準の豊かな暮らしを享受できるのも、海外に行っても特に被差別意識もなく過ごすことができるのも、全て武士道の最後の影響です。祖父たちの世代までの遺産と言ってもいいでしょう。「あいまいな日本の私たち」は、日本の豊かさの理由も、過去の人たちが命がけで守ってきた日本もよく分からぬまま、祖父母の遺産を食い潰しながら生きているのです。
あのブログのコメント欄には、こんな感想が寄せられていました。
>>日本には「Noblesse Oblige」という概念がない
私はこれを読んで思い当たりました。日本人にも。日本人にこういう教育は無いですね。昔はこういう教育が強すぎた反動ですね。こういう教育や社会通念を日本の社会に植えつけるにはどうすればいいのでしょうか。
「武士道」という本は、新渡戸博士がベルギー人に「あなたの国では、宗教なしにどうやって子供に道徳教育を授けるのですか!」と聞かれ、日本でそれに代わるものは武士道であったことに思い至るエピソードに始まります。
しかし今や、私達はそれがあったことすら忘れようとしています。
武士道は死ぬか
新渡戸稲造は、武士道の典型を桜の花に例え、
しからばかく美しくて散りやすく、風のままに吹き去られ、一道の高気を放ちつつ永久に消え去るこの花、この花が大和魂の型であるのか。日本の魂はかくももろく消えやすきものであるか。
と疑問を呈しています。
しかし、おそらくは、このブログエントリにもコメントにも、「昔は封建制度だった」という連想があったのでしょう。ブログにも「もしかして明治時代くらいはあったのかもしれない」という注釈が付いています。
しかし、逆にこれこそが、武士道という既に散った桜花の香気が、まだ少しでも残っている証左なのかも知れない、と慰められる気もするのでした。
『武士道』は、その終章で、このように締めくくられています。
武士道は一つの独立せる倫理のおきてとしては消ゆるかも知れない、しかしその力は地上より滅びないであろう。その武勇および文徳の教訓は体型としては毀れるかも知れない。しかしその光明その栄光は、これらの廃止を越えて長く活くるであろう。その象徴とする花のごとく、四方の風に散りたる後もなおその香気をもって人生を豊富にし、人類を祝福するであろう。
せめてこの予言を単なる楽観的希望にしないために、日本の遺産を次の世代に引き継ぐために、何ができるのでしょうか。時間は限られています。
参考文献
「武士道」解題―ノーブレス・オブリージュとは
本文中でも触れてますが、李登輝氏の『「武士道」解題』がすばらしいです。新渡戸稲造オリジナルの『武士道』は、当時の西洋社会向けに書かれたために西洋文学の引用が多く、表現に難解なところも多いのですが、こちらは新渡戸稲造の生い立ちから説き起こし、そのエッセンスを解説しつつ、現代の日本に向けたありがたい提言が詰まっています。悩める日本人必読の書。
渡部さんにはペーパーバックのオリジナル版をおすすめさせていただきたい。
Amazon.com: Bushido: The Soul of Japan (Bushido–The Way of the Warrior): Books: Inazo Nitobe
慣れぬ英語と戦いながら、アメリカで活躍した新渡戸稲造の精神は、きっと現代のシリコンバレーでも何らかの役に立つと思います。
(櫻木)
戦後の日本人が、欧米に対して劣等感を抱いていたのは、教育が悪いとかより、単純に戦争に「負けた」からというのが一番大きいと思います。
明治以降の日本人が、自国の文化に劣等感を抱いていなかったかと言えば、そんなことはなくて、コンプレックス抱きまくりだったと思う。戦後の比じゃない。
漱石なんて『三四郎』のなかで、日本が外国に誇れるものは富士山ぐらいしかない、と言ってるぐらいですからね。
「もっと強い国と、どうやって同列に見てもらえるか」というのが動機になって、文明開化があり、不平等条約の改正があり、「大東亜戦争」があったと思う。
確かに大正デモクラシー以降、日本が欧米に追いつき肩を並べたという意識があって、だからこそ、石原莞爾の『世界最終戦争論』があり、日米決戦があった。
しかし、全然アメリカに追いついていなかったというのを思い知らされたんだから、戦後、再び劣等感を抱いて、アメリカに憧れたのも自然と思う。
そういう意味でも、「第二の文明開化」から60年経った僕らの世代は戦争期の若者に似ているかもしれませんね。
僕らは、戦後の日本人が憧れ続けたハリウッド文化に何のコンプレックスもないし、アキバ文化をはじめとする日本のポップカルチャーが「亜細亜」を制覇していることに、奇妙な優越感を覚えたりするわけですから。
戦後、「アジアの方々に多大なる苦痛を与えた」なんて反省していたのは左翼知識人だけで、大多数の庶民が反省したのは、「なんで負けたのか」「なんで負けるような戦争を仕掛けたのか」ということだったと思う。
この反省に立って、平和主義があり、高度経済成長があったと考えるほうが自然じゃないでしょうか。
平和主義も経済発展至上主義も、どれだけ尊いものかは別として、何でも教育のせいにするのはいかがかと思う。
物事の見方がちょっとイデオローギッシュになりすぎていませんか?
僕が小学生の頃に受けた平和教育も、日本が加害者になって世界を苦しめたという話よりも、原爆の映画や空襲の映画を見せられて、「戦争って恐っ」と震え上がらせるのが主だったと思うんですけど、どうですか?
明治帝国の立ち位置や明治人の涙ぐましい努力については僕も重々承知ですし、「戦争に負けたから劣等感」はまあ自明でしょう。
本筋ではないけど、僕がここで指摘しているのは戦後の占領政策と教育破壊の話。50~60代って言うのは戦後世代ですよ。直接の敗戦経験は無い。
あと僕の感覚では「なんで負けたのか」「なんで負けるような戦争を仕掛けたのか」などと考えるのは“大多数の庶民”ではないし、高度経済成長の礎は戦争への反省ではなく、そういう面倒くさいことを考えずに集中したからではないかという気がします。
また、トーンがイデオロギってるのは芸風なんであまり気にしないほうがいいでしょう。
しかしトヤマ君とは大抵の話が180度対立して苦笑するのが常だけど、この辺はそれほど感覚にズレはなさそうなのね。
イデオロギってるのが朱雀さんの芸風なのはわかりますし、そこが好きだったりさえするわけですが、イデオローギッシュと言って悪ければ、図式的すぎるというか。
例えば、朱雀さんが持つ、韓国への嫌悪感とか、ミリタリーなものへの憧憬とかは、実感から発したものだと思うけど、「教育破壊」については、どれだけの実感に基づいているのかな、と思ったわけです。
朱雀さん自身、昔受けた教育によって、自分の日本人としての誇りが傷つけられたと感じているのかどうか。それが大人になってからの後知恵でないのかどうか。
朱雀さんの図式だと、「アメリカと戦った祖父の世代は誇りを持っていたが、父の世代からはアメリカの教育破壊によって誇りが失われた」ってなるんだけど、実際には、祖父世代(それこそ米軍の記録映像に拍手した教師)が作りあげた「戦後民主主義の虚妄」を告発するっていうのが父世代の全共闘運動のスローガン「大学解体」だったわけだし、ヴェトナム反戦運動も反米運動だった、という側面も忘れちゃいけないと思います。
だいたい、日本の繁栄は途上国の搾取に基づいたものだから、資本主義を批判して、国益より国際社会の繁栄を優先すべきという左翼的発想は、「強者が弱者のwell-beingに責任を持つ」「 ノーブレス・オブリージュ」と言えると思うのですが。
また、ぼくは、韓国の歴史教科書の日本語訳(売ってます)を読んで、ここでは、朱雀さんが日本に望んでいるような教育が行われていると感じる。自国の歴史に誇りを持つことが大事、個人よりも「同胞」が大事と説いている。数々の「烈士」「義挙」が称えられている。民族精神が称揚され、愛国的であることと道徳的であることが、同義であるかのように書かれている。ぼくは読んでちょっと微妙な気分になるが、朱雀さんはならないか。教育のおかげで、国際社会のなかで韓国人が「堂々としている」と評価できるかどうか。
とはいえ、ぼくが付き合いのある韓国人は、みんな謙虚で、自由闊達で、好きですけどね。それは歴史教育なんかとは関係ないことだと思う。
「大多数の庶民」については、朱雀さんの言うとおりでしょうね。庶民の実感は「戦争はこりごり」「アメリカ強すぎ」ぐらいでしょうか。その実感が、戦後世代に引き継がれたことまで、「洗脳」の結果と見るかどうかは、意見が分かれるかもしれませんね。
もちろんぼくも、アメリカの検閲にも、東京裁判にも問題があったと思っていますよ。いろいろと。
武士道は美意識だと思う。押されちゃうのは役に立たないからだと思う。でも役に立たないものこそ!
ディオゲネスとボヘミアン (民主国家とノブレス・オブリージュは両立するか その3)
精神の自由を確保するためには、執着から遠く離れていないといけないと言ったけれど、これは多分に主観的なもの。過去には、お金にまったく心が囚われなかった人々が…
フリーターとニートとひきこもり (民主国家とノブレス・オブリージュは両立するか その5)
Not in Education, Employment or Training。日本語訳は「教育を受けず、労働をおこなわず、職業訓練もしていない人」。通…
戒と律 (民主国家とノブレス・オブリージュは両立するか その6)
仏教用語で戒律というのがある。
民主政体とノブレス・オブリージュ (民主国家とノブレス・オブリージュは両立するか 最終回)
「美しいことを日常のつとめとすれば、徳を所有するほうへ、醜いことを日常のつとめとすれば、悪徳を所有するほうへと導かれるのではないか」
洗脳の世代 ~武士道~(2) | 朱雀式 http://t.co/ZVbU6rye @suzakushikiさんから