親類の葬儀に出席してきたんだけど、そこは宗派が浄土真宗で、色々と面白かった。
浄土真宗というのは、浄土宗(法然)から親鸞が独立して作った宗派。さながらカトリックに対するプロテスタントのような新教なので、形式の中にカウンタースクールとしての差異が見え隠れする。
宗教の本質とは心の問題とは言いつつも、その心のありようを外に映し出すのがカタチで、宗教的儀礼にはその宗教のカタチが形式として現れる。そういう意味では、形式こそが宗教の実質とも言える。
具体的に言うと、浄土真宗はこんなところに特徴があった。
・焼香は1回
お香をひとつまみ、額の前に押し頂いてから3回くべる、というのが一般的な焼香作法だが、浄土真宗では押し頂かない。ひとつまみしてパラリと1回くべれば終わり。
・僧侶は剃髪しない
坊主が普通に七三分けで現れる。何もこの僧侶の反骨心の現われではなく、むしろ剃髪しないように定められているそうである。
・清めの塩はない
葬式の参列者が、家に入る前にまく塩が配られない。塩でケガレを払うなどという神道的、あるいは迷信的な行為は行なわないということだろうか。
・歌がある
これが一番驚いた。参列者に配られた経本の末尾には歌集があり、賛美歌風に楽譜と併せて20曲くらい掲載されていた。内容は「ひかりの中に 親鸞さまは おわします」と言った具合に、親鸞がキリスト教で言うイエスのポジションにいるような感じの歌。しかし特に聖歌隊などがいるわけでもなく、読経のときの声のまま僧侶が朗々と詠じて終わる。
全体的に、宗教的儀礼にありがちな形式をなるべく排除、単純化しようとしたものと思われるが、個人的にはそれはそれで「ありがたみ」とトレードオフのような気がした。歌は本当にキリスト教的なものを取り入れようとしたんだろうと思う。西洋式の楽譜付きだったし。
参照リンク
・「お清めの塩」の話
(櫻木)
あーすいません。たいてい酔っぱらってコメント書いて翌日見直す→意味不明なのは消すというのをよくやるのです。すいません。もう何を書いたかおぼえていない。
↓勉強になりました…あれっ消えてる
先日親戚の法事に行きましたが、そこも浄土真宗で面白い体験をしました。
まず、お坊さんが22歳の今時のお兄ちゃんでした。さすがに黒髪でしたが、赤西みたいな髪型。やっぱりそれも「浄土真宗だから、特に形は決まっていない」そうです。
お葬式その他では基本的にお清めの塩はなし。それは変だ、いやだという人がいたらあげるそうです。それと位牌に価値を見出していません。
基本的に、意味のない迷信は切り捨ててあるそうで、他の宗派との違いが新鮮でした。二十歳そこそこの兄ちゃんお坊さんは、気さくで親戚から質問責めに遭ってました。
そうそう、そんな感じですよね。ただ、非常に疑問に思うのは、「迷信を切り捨て」たら、いったい宗教としてはないが残るのか?という点です。
迷信と正しい信心の区別は誰が、どこで付けられているのでしょうか。
位牌に価値もない、魂のよりしろを認めないとしたら、行き着くところは無宗教になってしまって、そもそも葬式供養の意味がなくなってしまいそうな気がするんですよね。不思議だ。