台湾

台湾が親日国な理由

よく、「台湾は親日的だ」と言われている。学校で「日本は戦争責任でアジア中から敵視されている」と教わった人たちは、台湾の親日の理由が分からず、戸惑ってしまう。かつての僕もそうだった。

日本人が台湾人に「日本が悪いことをしてごめんなさい」と謝って「とんでもない」と逆に説教されるようなこともあると聞く。

では、台湾はなぜ親日なのか。
それは、かつて台湾は日本だったからである。

元台湾総統 李登輝氏

こう聞くと、「日本が昔、植民地にして迷惑をかけたってことでしょう?」と思う人もあるかもしれない。
しかし、それは。歴史の真実ではない。あの時代は、日本人と台湾人とが、一つの国として手を取り合って発展した、幸せな時代でもあったのだ。
22歳まで日本人として育った、台湾前総統・李登輝氏は言う。「日本人は、過去の否定から脱し、現在を肯定しよう」と。

では一体、日本は台湾で何をしてきたのか?

どうして今でも「親日家」の台湾人がたくさんいるのか?

日本の立場から、台湾の歴史をもとに考察してみることにしたい。

近代以前の台湾

台湾は、かつては原住民と福建省からの移民や流民、倭寇などが争いを続けているような孤島だった。17世紀にはオランダ人が植民地にしたこともあったが、シナ大陸からの移民と原住民を対立させる支配形式をとったため、台湾の文化や国籍意識は育たなかった。
日清戦争の結果、台湾は日本に統治されることになった。大日本帝国成立後、初めての領土獲得に日本人は喜んだが、当時の日本の国力から言うとこれはやや過分な戦利品で、台湾総督になった乃木希典は「乞食が馬をもらったようなものだ」と述懐しているほどである。

台湾には、風土病や原住民の反乱が多く、清は「化外の地」(文化・文明の範囲外)としてまともに統治することをあきらめていた。ヨーロッパから持ち込まれたアヘン吸引の悪臭もはびこり、土地も人心も荒れ果てていたのだ。言葉が統一されていないため、部族間でも意志の統一が図れず、敵対や衝突もしばしば発生していた。

日本統治時代

そこにやってきた日本は、列強国の優等生として世界にアピールすべく、また持ち前の日本精神を発揮して、台湾の教化改造に乗り出した。列強各国の搾取型植民地支配を目の当たりにしていた日本は、「内地延長主義」として、獲得領土を日本国内と同じように扱うという、欧米列強とは正反対の政策をとった。

まず最初に日本が力を入れたのは教育だった。日本から優秀な教育者を派遣し、台湾中に学校を建て、教育自体と同時に、物事を学ぶ姿勢を根付かせた。1904年に3.8%だった台湾児童の進学率は、1944年には71.3%にまで向上した。

児玉源太郎の時代には、後藤新平の尽力によってアヘン吸引の習慣が根絶され、各地に病院が建設され、「解決不能」と言われていた台湾の衛生状況は一新した。

また明石総督の指示によって、日月潭にアジア最大級の水力発電所が作られ、電気は台湾中に通うようになった。この水力発電所は、未だに台湾の水力発電量の半分を生み出している。

八田與一の作った烏山頭ダムは、台湾の農業生産を飛躍的に向上させた。
日本から赴任した八田は、「宗主国からきた指導者」として威張るようなところはまったくなく、みずから危険な場所にも足を踏み入れ、マラリアに三回もかかり、毒蛇にも何度も噛まれ、苦心の末に巨大ダムを完成させた。このダムは、水害と干害とで不毛の地だった嘉南の平野を、アジア有数規模の穀倉地帯に作り替えた

烏山頭ダムの全景

烏山頭ダムの水面を見つめる八田與一の銅像

今も台湾の人々に敬愛されている

今でもダムの近くには、八田與一の銅像が置かれ、命日には地元の人によって慰霊祭が行われている。

日本時代の1919年に立てられた堅牢なレンガ造りの台湾総督府の建物(同時期に作られた東京駅にも似ている)は、国宝級古跡にまで指定され、現在は台湾総統府として大事に使われている。

現在も台湾総統府として使用されている

こうした台湾のインフラ整備に意欲を傾けた偉人達と、台湾全土で忠実に任務にあたった警察官や学校教師達のおかげで、台湾人は次第に日本人を敬愛するようになっていった。

(もし台湾旅行に行く事があったら、赤レンガの建物に注意してみて欲しい。古くて頑丈そうな赤レンガの作りだったら、この頃に作られた建物が使われている可能性が高い。警察庁舎や消防署などでよく残っている。)

戦争の時代

しかし時代はまさに戦争の世紀。日本の一部となった台湾も、大東亜戦争と無縁ではいられなかった。ただし、戦争の中期までは、徴兵されるのは日本本土と朝鮮地方からであり、台湾出身者は徴兵されなかった。台湾人はこれを不服として、徴兵嘆願運動が起こったこともある。

大東亜戦争末期になると、とうとう台湾からも徴兵されることになった。中でも、軍属として徴用された「高砂族」と呼ばれる、台湾の山岳民族は、南方戦線に送られて多大な貢献を果たした。
熱帯雨林の活動に不慣れな日本兵の代わりに、彼らは先祖伝来の蛮刀を腰に帯びて縦横無尽に動き回り、食料調達から斥候、戦闘まで勇敢に活躍した。彼らは「高砂義勇隊」と呼ばれた。

この「高砂族」というのは、実は民族の呼称ではなく、山岳地帯の諸民族の総称である。
日本統治以前は、彼らはそれぞれの部族の言葉しか持たず、互いに敵対し、もちろん平地に住む本省人たちとも敵対していた。しかし、日本語の教育と普及が、彼らに意思の疎通と、「日本人」としての意識の統一をもたらしたのだった。

烏来の温泉郷などへいくと、今でも「高砂族」の人々は、流暢な日本語でもてなしてくれる。

国民党の圧政

しかし周知の通り、大東亜戦争は日本の敗北で幕を閉じた。
台湾は領土未帰属の状態となり、とりあえずの措置として中華民国(国民党軍)がやってきて支配することになった。台湾人は、当初は同じ漢民族である(と誤認していた)中華民国を歓迎するつもりだったが、軍規粛正な日本軍とのあまりの落差にショックを受けることとなる。

その民度の低さは、台湾人への略奪、暴行、役人の賄賂要求はもちろんのこと、水道を見て仰天し、金物屋で蛇口を買い求めて壁にめり込ませ、「水が出ない!故障だ!」と怒るような有様だった。

いつしか人々は「犬(日本人)がいなくなって豚(シナ人)が来た」と言って日本統治時代を懐かしむようになり、「日本精神(リップンチェンシン)」という言葉が生まれた。

国民党による圧政は単なる差別にとどまらなかった。外省人(戦後やってきたシナ人)と本省人(元々の台湾人)との対立は先鋭化し、とうとう台湾人による抗議運動は武力衝突につながった。

国民党軍が台湾人を殺戮した2.28事件

この二・二八事件事件以降、国民党政府は全土に戒厳令を敷き、台湾人を片っ端から殺しまくった。(白色テロ) 特に、元日本軍人や知識人などが狙われたため、このあと台湾は文化、経済的に大きく停滞することになる。この虐殺による死者は3万人近いとも言われるが、正確な数字は未だに不明である。(詳細はこちら:台湾の悲劇『ニ・ニ八事件』を読み解く | 朱雀式

白色テロの恐怖を伝える写真は少ない

大虐殺を指揮した蒋介石

台湾には、「アメリカは日本に原爆を落としただけだが、台湾には蒋介石を落とした」という言葉まであるくらい、蒋介石の独裁が台湾にもたらした災厄は大きなものだった。
この戦後しかれた戒厳令は、なんと1987年まで継続しており、台湾人は外省人の圧政に長らく苦しめられることになった。

親日の世代

このような歴史を経て、日本統治時代を直接経験している世代(トーサン世代)は、今でも流暢な日本語を話し、「自分は元日本人である」と胸を張ってくれている人が多い。李登輝元総統や、司馬遼太郎『台湾紀行』にも出てくる蔡焜燦氏らの世代だ。

しかし、台湾の全人口が親日的なわけではない。戦後やってきた外省人がもちろん反日的だ。外省人は少数派だが、政権を掌握している彼らは中華民国の反日史観で国民を教育し、メディアを支配してきた。

これによって、本省人にも戦後世代には反日史観に影響されている人も増えてしまった。今の陳水篇総統らの世代がこれにあたる。

だが台湾の民主化以降は言論、政治にも自由な空気が戻り、1997年には日本統治時代を客観的に評価する『台湾史』の教科書が制定された。これまでは「中華民国は大陸全土を支配している」という蒋介石の妄想に従って『中華民国史』しか教えられていなかったが、ようやく台湾を台湾として教えられる教育が始まったのだ。

こうして新しい教育を受け、アニメや音楽など、日本のポップカルチャーに影響を受ける次世代の台湾人は、概ね親日的の傾向があり、両国の未来志向の関係発展が期待される。

台湾と朝鮮と何が違ったのか

また、インフラ整備や教育など、同じような統治時代を経験した朝鮮(むしろ台湾より優遇されていた)は、台湾とは逆に戦後世界一の反日国家になっている。
この点について考えると、台湾の親日傾向は単純に日本統治の影響によるものだけではなく、南国のおおらかな気質や、良いものを認めて受け入れるある種の国民性という土壌がもともとあったのではないか、とも思われる。

台湾には、戦後の日本が捨ててしまったもの、朝鮮が破壊してしまったものが数多く残っている。そのかけらがまだ残っているうちに、日本語世代がまだ生きているうちに、台湾に行っておいた方がいい。

台湾は、日本から飛行機でわずか4時間、航空券も3~5万円で往復券が買える。治安もよく、料理は『中国』に比べて格段においしく、人々は親切だ。そして、日本が忘れた日本に出会える。それが台湾である。

街なかでご老人を見かけたら、日本語で挨拶をしてみると、昔話をしてくれるかもしれない。彼らは、日本人として生まれ、思春期に「中国人」にならなければならなかった人たちだ。僕が出会ったある老人は、たまに日本語を話すのが懐かしくて楽しいのだよ、と話していた。

どうぞ、次の旅行の予定は、台湾へ。

(櫻木)