歴史と日本

「原爆投下はしょうがない、 ソ連の参戦阻止が狙い」という久間防衛大臣の妄言には、各界から非難の声が相次いだ。原爆についてはすでに多くの方が指摘しているので、ここでは「ソ連が侵略しなかった」「原爆のおかげで、北海道が取られなかった」という妄言について反論しておきたい。ソ連は侵略した。それでも北海道が取れなかったのは、北海道を守った日本人がいたからである。

占守島の戦い

占守島の廃棄戦車
占守島の廃棄戦車

占守島しゅむしゅとうという島がある。

第二次大戦の日本軍を語る上で、硫黄島やガダルカナル島同様、忘れてはならない島の一つだ。

昨年末、映画『硫黄島からの手紙』によって、硫黄島という南洋諸島の小さな島は、世界的に知られる島となった。硫黄島の戦いは、寡少な兵力を持ちながら、日本本土への米軍の上陸を少しでも遅らせるため、「5日間で占領」するつもりだった米軍の思惑を大きく裏切り、1ヶ月も釘付けにし、日本軍を上回る犠牲を強いた戦いだった。

ところが、日本の最南端で行われたこの戦闘と同様、占守島という最北端の島でもまた、日本を守るための激しい戦いが行われたことを知る人は、硫黄島のそれに比べて余りにも少ない。

それが「占守島の戦い」である。

終戦後、ソ連は侵攻していた

北海道占領予定線
北海道占領予定線

この地図を見てほしい。

北海道をまっすぐ分断するこの線、これがスターリンが企図していた、北海道占領予定線である。

スターリンは、かの悪名高きヤルタ会談の密約で、参戦の見返りとして樺太と北方領土を占領する約束をルーズベルトから取り付けていた。

しかしルーズベルトの死後、トルーマンに北海道北部の占領を反対され、日本の降伏後に火事場泥棒を行うべく、大軍を送り込んできたのである。

スターリンは、「占守島は一日で占領する」と豪語していた。

占守島

占守島は、北方諸島の最北端にある、面積で言うと琵琶湖程度の小さな島である。海抜200m未満の丘陵と沼地、草原が入り混じり、樹高1mくらいの這松や榛の木が群生している。夏は15度で濃霧が発生し、冬にはマイナス15度で猛吹雪になる気候。東西20km、南北30kmあまりの小島だが、北はカムチャッカ半島、東はアリューシャン列島と交差する要所で、日本領の最北端だった。

日本はアリューシャン列島を西進してくるアメリカ軍の侵攻に備えて、戦車隊を擁する精鋭守備軍2万5000をここに置いていた。すでにアリューシャン列島のアッツ島やキスカ島は、米軍によって陥落していた。

ソ連軍の侵攻

ところが8月15日、日本はポツダム宣言を受諾、日本軍の無条件武装解除が決定した。占守島でもこの命令が伝わったとき、兵士達は激しく動揺し、自決するものも出るほどだった。しかし、長かった苦しい戦いが終わり、極寒の島から故郷に帰れる安堵から、兵士達も笑顔を取り戻し、武器の処分など撤退準備が始まっていた。

しかし8月18日未明、事態が急変する。

ソ連軍が突如として侵攻してきたのである。占守島の対岸にあるロシア領、ロパトカ岬から長距離射程重砲の砲撃が始まり、現場の通信所からは「海上にエンジン音聞こゆ」と急報が入った。

すでに戦争は終結したはずで、兵達も家族の待つ故郷に帰れるつもりでいたし、武装も解除していた。しかし、ここで自分達が戦わなければ日本はどうなるか。

師団長、堤不夾貴中将は一旦は解除した武装を急遽揃え、戦闘を決意した。

その後も現場の通信所からは「敵輸送船団らしきものを発見!」「敵上陸用舟艇を発見!」「敵上陸、兵力数千人!」と急報が相次ぎ、不意を付かれた日本軍は間に合わせの準備で各個戦闘を余儀なくされた。(ちなみにこの段階では、当然アメリカ軍の侵攻と考えられていた。)

砲兵隊の活躍

占守島全図
占守島全図

まずソ連軍の上陸地点である北部の竹田浜にいた村上大隊が自衛戦闘を開始した。当時の「水際撃滅作戦」の思想にしたがって沿岸に多数配備されていた、野砲や重砲などの大砲が火を吹いた。対岸のロパトカ砲台からもソ連軍が12センチカノン砲5門で砲撃してきたが、日本軍の重砲2門がこれを20分で沈黙させ、他にも敵船を13隻撃沈するなど、大活躍をした。

硫黄島では「米軍の艦砲射撃戦法に対しては効果が薄い」とされた水際撃滅戦法だが、火事場泥棒的に押し寄せてきたソ連軍には効果覿面だったのだ。しかしその背後にはまだ200隻以上の艦船があった。ソ連はこの小さな島に、2万もの兵力を動員していたのである。

戦車隊の活躍

圧倒的なソ連軍2万に対し、北部の村上大隊はわずか600名! 物量に飲み込まれ、全滅する部隊も続出、ソ連軍の上陸を許してしまったころ、濃霧の中で南部から時速60キロで駆けつけた援軍の戦車隊が間に合い、日本軍はソ連軍を再び押し返すことに成功する。

この戦車第十一連隊は、「十一」を合わせて「士」、通称「士魂部隊」と呼ばれた精鋭部隊で、「戦車隊の神様」と言われた池田末男大佐が指揮していた。池田大佐は、学徒兵には「健康を第一とし、具合が悪くなったらすぐに申し出よ」と気遣い、下着の洗濯など身の回りのことは全て自分で行なう、四児の父である。硫黄島で言う栗林中将のような、部下に慕われる人格者だった。

集結した戦車隊の部下を前に、池田大佐は問うた。

諸氏は今、赤穂浪士となり、恥を忍んでも将来に仇を奉ぜんとするか、
あるいは白虎隊となり、玉砕もって民族の防波堤となり、後世の歴史に問わんとするか!?
赤穂浪士たらんとする者は、一歩前に出よ。
白虎隊たらんとするものは手を挙げよ!

全員が、喚声と共に即座に手を挙げた。

池田大佐は、先頭に立って敵陣に突撃し、戦闘中に敵の戦車砲によって戦死している。

航空機部隊の活躍

島に7機だけ残っていた航空機部隊も発進した。魚雷はすでに処分してしまっていたため、通常の爆弾や対戦車用炸裂弾を搭載して攻撃、わずか7機で、輸送船2隻、駆逐艦2隻、艦種不明1隻撃沈、輸送船2隻撃破という大戦果を収めた。
ソ連軍も10機ほど戦闘機を出撃させたが、戦車隊の懸命な防空射撃はこれを寄せ付けなかった。

停戦

これら部隊の奮戦によって戦闘は次第に日本軍が優勢になり、ソ連軍は海岸付近に追い詰められ、あとわずかの攻撃で日本軍がソ連軍を殲滅という体勢にまでなった。しかしそのとき、札幌の方面軍司令部から「戦闘を停止し、自衛戦闘に移行」との軍命令が届き、停戦交渉を開始せざるを得なくなった。しかしソ連軍は停戦軍使を射殺するなど、一向に攻撃を収める気配が無く、戦闘が続行される中、とうとう札幌より「停戦すべし」との命令がくだり、ようやく21日に交渉が成立した。

最終的に武装解除がなされたのは24日だった。日本では、8月15日を終戦の日として扱っているが、その後も祖国を守る戦いは続いていたのである。

戦い終えて

ソ連軍の侵攻地における略奪、破壊はすさまじいものがあり、特に女性に対する陵辱は陰惨を極めた。ベルリンや満州では地獄絵図が繰り広げられた。この占守島にも、缶詰工場で働く約400人の若い女子工員がいた。戦闘のさなか、占守島司令部隊は、島にあった独航船20数隻に女性を乗せることにした。戦闘を終了したソ連兵が血眼になって女性を探したが、女性達は無事に北海道に着いた後だった。

ソ連軍は北方領土を次々と侵食して行ったが、北海道本島にはすでにアメリカ軍が進駐しており、ソ連による北海道割譲の野望は砕かれた。当初の計画通り、占守島が1日で占領されていたら、北海道もソ連の手に落ちていたことは間違いない。

島を死守し、民間人を保護し、祖国を守って戦い抜いた男達は、戦闘終了後も帰国できるはずが連行され、極寒のシベリアで奴隷労働に従事し、多くが命を落とした。(ちなみにこの明らかな国際法違反の拉致虐待犯罪による被害者は200万、死者40万とされている。)

ようやく抑留から開放され、帰国した彼らを待っていたのは、世間の無関心と反戦平和の風潮で、占守島のことを知る人は全くいなかった。

日本人が忘れてはならない島がある

この激闘で、日本軍の死傷者は700~800名におよび、ソ連軍は3000名以上の死傷者を出したと伝えられる。ソ連政府機関紙のイズベスチアは「占守島の戦いは満州、朝鮮における戦闘よりもはるかに損害は甚大であった。8月19日はソ連人民にとって悲しみの日である」と述べている。

しかし、この日は日本にとって、大日本帝国軍における最後の大勝利をたたえるべき栄光の日であったのだ。

「世界が忘れてはならない島がある」

これは、映画『硫黄島からの手紙』のキャッチコピーだ。しかし、硫黄島と同じく、少なくとも日本人が忘れてはならない島は他にもある。その筆頭がこの占守島である。

家族と国とを思い、侵略者から祖国を守って戦った彼ら戦士達の、その勇気と信念を今後は決して忘れず、感謝の祈りをささげたい。


本来こういう歴史をこそ国民の間で共有するべきだと思うので、硫黄島のようにいずれこの戦いも映画化されることを願っています。

(櫻木)